鳥羽の贄遺跡は縄文から平安時代の4000年間に遺跡
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伊射波神社
伊射波神社 所在地 位置 主祭神社格等 創建 本殿の様式別名 例祭 主な神事
大漁祈願祭時の拝殿 | |
三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1210 | |
北緯34度28分22.44秒 東経136度52分27.66秒座標: 北緯34度28分22.44秒 東経136度52分27.66秒 | |
稚日女尊 伊佐波登美命 玉柱屋姫命 狭依姫命 | |
式内社(大)論社 志摩国一宮 無格社 | |
不詳 | |
神明造 | |
かぶらこさん | |
1月9日、6月7日[1] | |
大漁祈願祭(11月23日) |
別称として「志摩大明神」・「加布良古大明神」・「かぶらこさん」等とも呼ばれる。
祭神
- 稚日女尊(わかひめのみこと)
- 伊佐波登美命(いざわとみのみこと)
- 玉柱屋姫命(たまはしらやひめのみこと)
- 狭依姫命(さよりひめのみこと)
御崎の先には、別に領有神が祀られている。当社の玉垣内には丸白石が敷き詰められており、古くから漁民はこの白石を船霊として船中に安置し、豊漁を祈る習慣がある。船守りとして白石を持ち帰った際は、必ず2倍3倍にして社地へ返さねばならないとされる。
歴史
創建の時期は不詳だが、1500年以上の歴史を持つといわれる。『諸国一の宮』[2]によれば、当社は稚日女尊を海の道から加布良古崎へ祭祀したのが起源で、志摩国の海上守護神として古代から崇敬されたと言う。
延長5年(927年)の『延喜式神名帳』には「貞コ粟嶋坐伊射波神社二座 並 大」と記載がある。『諸国一の宮』[2]では、志摩市磯部町から鳥羽市安楽島町にかけての粟嶋と呼ばれた地域で、伊射波神社2座のうち1つは当社、1つは伊雑宮と述べる。しかし、『中世諸国一宮制の基礎的研究』[4]では、伊射波神社2座は合祀されて伊雑宮に祀られたので、当社は式内・伊射波神社ではないとする。
建久3年(1192年)の『皇大神宮年中行事』[5]に「悪志。赤崎。加布良古明神」とあり、また『外宮旧神楽歌』に「志摩国知久利が浜におわします悪止・赤崎・悪止九所のみまえには、あまたの船こそ浮かんだれ、艫には赤碕のり玉う。舳先には大明神(加布良古神)のり玉う。加布良古の外峰に立てる姫小松、沢立てる松は千世のためし、加布良古の沖の汐ひかば、都へなびけ、我も靡かん。加布良古の大明神に遊びの上分を参らする請玉の宝殿」とあるため、『日本の神々』[1]では古くから阿久志神社や赤崎神社と共に知られていたと述べる。
当社は伊雑宮と共に志摩国一宮とされる。志摩国に一宮が2つあった理由について、『日本の神々』[1]では伊雑宮が伊勢神宮の別宮兼官社だったため、民社で同じ祭神の当社を一宮にすべき事情があったか、鳥羽藩が神領再興を叫ぶ伊雑宮の神職を牽制するためにもう1つの一宮をつくったのではないかと推測している。
また、『中世諸国一宮制の基礎的研究』[4]では、次の5つの理由から伊雑宮こそが志摩国の一宮とする。
- 『和名類聚抄』の例から「伊射波」は「伊雑」の万葉仮名と考えられること。
- 『大神宮本記帰正鈔』の「廿七年伊雑宮造立」の項に「神宮ヨリ摂スル時ハ、伊雑宮ト宮号ヲ以テ称シ、志摩国司ノ管スル時ハ、伊射波神社ト社号ヲ以テセシト見エテ」とあり、神宮と国司で伊雑宮の呼び方が異なったこと。
- 加布良古明神は古くは荒前神社と呼ばれたらしく、古代・中世の史料に伊射波神社の名がないこと。
- 明治7年(1874年)に薗田守宣が著した『伊射波神社考』に「文化四年六月、城主(鳥羽城主稲垣長以)ノ沙汰トシテ、社ノ覆屋、拝殿・鳥居ヲ寄附シ、神号ノ捜索アリテ、伊射波大明神ナル趣ヲ啓ス」とあり、文化4年(1807年)から当社を伊射波神社と称したこと。
- 一宮は、一般に国府に近い大社とされる慣例だったが、国府推定地である志摩郡阿児町国府から見て、伊雑宮の方が当社より近いこと。
『志陽略誌』には「倭論語云う志摩大明神と号す是なり。或人志摩国一宮と云う也。(略)往古社頭地あると雖も、戦国より以来之を亡失す」とあり、戦国時代に社地を失ったとされる。また、安政元年(1854年)11月の大地震と大津波[6]、火災によって記録が流失・焼失したと言う[2]。
境内
- 領有神(うしはくがみ)
社殿から250mほど岬の先へ進んだ場所にある領有神の神体石。
主な祭事
- 明神祭(7月7日に近い日曜日)
- 大漁祈願祭(11月23日)
現地情報
- 所在地
- 交通アクセス
志摩国一宮 伊射波神社
安楽島の加布良古崎にある御食つ国・志摩の一宮
志摩国一宮 伊射波神社 (いさわじんじゃ) 通称 かぶらこさん
〔鎮座地〕 三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1020
〔社格〕 旧無格社 志摩国答志郡の式内社・粟嶋坐伊射波神社二座(並大)
〔御祭神〕 稚日女尊(わかひめのみこと)
伊佐波登美尊(いさわとみのみこと)
玉柱屋姫命(たまはしらやひめのみこと)
狭依姫命(さよりひめのみこと)
〔御由緒〕 天照大神に仕えていた稚日女尊を加布良古岬(かぶらこみさき)に祭祀したことが創祀とされ、志摩地方の海上守護神として信仰されてきた。『延喜式』にも記載され、加布良古大明神・志摩大明神とも称されている。
倭姫命が伊勢神宮に御贄(みにえ)を奉ずる地を捜し求めた際、この地で出迎えたおされる伊佐波登美尊は、安楽島の二地(ふたじ)にあった本宮で祀られていたが、平安時代後期に岬の現在地へ遷座された。 発掘調査された二地の「鳥羽贄遺跡」がその本宮跡とされる。
この神は新田開発に功績を遺され、志摩国の開拓祖神とされる。 玉柱屋姫命はその妃神で天日別命の御子神。 狭依姫命は宗像三女神の一である市杵島姫命の別名で、近くの長藻地という島に祀られていたが、島が水没したため伊射波神社へ合祀された。 境内には籠堂と、平成十三年に改築された神明造の本殿・拝殿がある。
-『全国一の宮めぐり』から-
昭和47年から61年にかけて鳥羽市教育委員会が発掘調査をし、その全
貌が『鳥羽贄遺跡発掘調査』に報告されています。その内容が、由緒に
は、簡単にまとめられています。
「遺跡は、縄文中期から平安中期に至るまでの連続した復々合遺跡で、
おびただしい数の製塩、祭祀用土器、儀礼用銅鏃(矢じり)、神水を得るた
めケヤキの巨木を刳り抜いて造った豪勢な井戸、神殿と思われる建物跡
が発掘され、皇族、貴族が往来した痕跡が見つかっています。こうしたこ
とから、古代伊射波神社は国家にも崇敬された偉大な贄持つ神であった
ことの証と言えましょう」と記しています。
二地の贄---
貌が『鳥羽贄遺跡発掘調査』に報告されています。その内容が、由緒に
は、簡単にまとめられています。
「遺跡は、縄文中期から平安中期に至るまでの連続した復々合遺跡で、
おびただしい数の製塩、祭祀用土器、儀礼用銅鏃(矢じり)、神水を得るた
めケヤキの巨木を刳り抜いて造った豪勢な井戸、神殿と思われる建物跡
が発掘され、皇族、貴族が往来した痕跡が見つかっています。こうしたこ
とから、古代伊射波神社は国家にも崇敬された偉大な贄持つ神であった
ことの証と言えましょう」と記しています。
二地の贄---
http://www.kirari1000.com/base_data/base_data.php?kirari_cd=03975
又、次のようなことも書かれています。祭神の伊佐波登美尊は、後に大 歳神と号され尊は伊射波神社本宮の衰退と共に、加布良古崎の伊射波神社に遷座されま した。
又、次のようなことも書かれています。祭神の伊佐波登美尊は、後に大 歳神と号され尊は伊射波神社本宮の衰退と共に、加布良古崎の伊射波神社に遷座されま した。
志摩地方は、その種類も豊富で、古代には「御食つ国」、すなわち天皇の食料を献上する国として知られていました。『万葉集』には、大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだ歌で「御食つ国 志摩の海女ならし真熊野(まくまの)の小舟に乗りて 沖へ漕ぐ見ゆ」という歌があります。この歌の意味は「小舟に乗って沖へ漕いでゆくのが見えるが、それは志摩の海女であろう」というもので、「御食つ国」が志摩の枕詞として使われるほどでした。
また、平城宮跡からは、鰒(あわび)6斤(名錐(なきり)郷)、海松(みる)6斤(船越郷)、海鼠(なまこ)(船越郷)・海藻六斤(和具郷)等が記された木簡が出土しており、志摩国から朝廷に海産物を納めていたことが裏付けられます。さらに、平安時代初期の法律書である『延喜式』には、志摩国に税として鰒や海藻・ところてん・真珠等を納める義務のあることが記されています。
こうした朝廷への食料の献上は、飛鳥・奈良時代以前にも行われていたようで、『古事記』の中にも「島之速贄(しまのはやにえ)」という言葉が出てきます。この「贄」という言葉も「朝廷(神)に捧げるみやげの魚など」という意味ですが、鳥羽市内の海辺には「贄遺跡」と呼ばれる古代の遺跡があります。開発事業に伴い、昭和47・48年及び60年に発掘調査が実施され、多くの貴重な遺物が発見されました。
特に金銅製の帯金具は、極めて身分の高い役人が身に着けていたもので、この地にこういった人物が足を踏み入れていたことを物語っています。それに、国の役所等に納めたとされる「美濃」という地名の刻まれた須恵器(土器)や和同開珎をはじめとした古銭なども出土しており、朝廷への海産物献上に関連する施設が存在した可能性がうかがえるものです。
伊射波神社本宮?
伊射波神社の本宮なんて「一社しかないのになぜ本宮?」と、安楽島の人でも以外に知らない話。
その昔、本宮は安楽島町字二地(ふたじ)の贄(にえ)、つまり贄遺跡。
今のエクシブアネックスがあるあたり。
贄遺跡は、昭和47年から昭和61年にかけて発掘調査され、縄文中期から平安中期までの連続した複合遺跡であることがわかり、製塩土器、祭祀用土器、儀式用の矢尻などが多数発掘されました。(日本で最初の銭化「和銅開珎」や奈良・平安時代の身分の高い役人が身に 付けていた帯金具が多数出土したことでも有名)
中でも神水を得るためにケヤキの巨木をくりぬいて作られた、全国的にも稀な二重濾過式井戸が発掘され、神様へのお供え物もこの水で調理されたそうです。
この井戸が使用された時代は奈良中期から平安後期にかけてであったと報告されています。
そしてその近くの一番高いところに伊射波神社の社殿があったそうです。
これが神名帳に登載された大二座のうちの一座で、伊佐波登美尊が祀られ、もう一座は、加布良古崎の伊射波神社を指し、この贄は伊射波神社の斎場でもありました。
つまり伊射波神社は独自に贄(神や天皇に供える塩やアワビなどの魚介類を調整するところ)を持つ神様だったのです。
参考:志摩国の一の宮 式内 伊射波神社 豆知識 刊行:安楽島氏子会
鳥羽には、いつごろから人が住んでいたか。神島に石器(尖頭器)が残されているが、それらは、縄文時代、1万年程前のもので、その頃から人が生活をしていたと推測される。昭和30年代後半のデータではあるが、鳥羽には遺跡が334ヶ所ある。その遺跡の中で今までに発掘調査を行ったのは、たったの4ヵ所。
それは、エクシブ鳥羽近くの海岸にある贄遺跡(にえいせき)、タラサ志摩近くの海岸にある白浜遺跡、答志島の大畑遺跡、答志島近くの大築海島(おつくみじま)の貝塚。
それらの出土品はどうかと言うと、大畑遺跡からの出土品は残念ながら整理がなされていない。大築海貝塚からの出土品にベンケイ貝の腕輪があるが、現在立教大学に保管されている。白浜遺跡のものは、海の博物館に、贄遺跡のものは図書館に保管されている。
贄遺跡からは金銅製の帯金具が20点出土しており、全国的に見ても1箇所でこれだけの量が出たのはここだけ。 白浜遺跡は、古墳時代の終わり3世紀後半までと推定される。かなり精巧な骨角器が出土していて、デザイン的にもめずらしく全国的に注目されている。高さ20cmくらいの小銅鐸も発掘されている。
贄遺跡 : 鳥羽 発掘調査報告 第2次
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タイトル 著者標目 出版地(国名コード) 出版地 出版社 出版年 大きさ、容量等 注記 注記 JP番号 巻次 出版年月日等 件名(キーワード) 件名(キーワード) NDLC NDC(8版) 対象利用者 資料の種別 資料の種別 資料の種別 言語(ISO639-2形式)贄遺跡 : 鳥羽 発掘調査報告 | |
鳥羽市教育委員会 | |
JP | |
[鳥羽] | |
鳥羽市教育委員会 | |
1987 | |
153p ; 26cm | |
三重県所在 | |
参考文献: p70 | |
87034089 | |
第2次 | |
1987.3 | |
鳥羽市 | |
三重県--遺跡・遺物 | |
GB121 | |
210.2 | |
一般 | |
図書 | |
政府刊行物 | |
地方公共団体刊行物 | |
jpn : 日本語 古代人が見た朝日も同じだったのだろうか k |