歴史
天神橋駅
1925年(大正14年)10月17日、 新京阪鉄道が大阪側のターミナルとして天神橋駅を置いた。これが現在の天神橋筋六丁目駅の直接のルーツであり、当時の隣駅である長柄駅と共に関西初の高架駅として知られる。なお駅名は所在地の地名(天神橋七丁目)に由来するが、この地名は「天神橋筋」を端折ったものであって、橋としての天神橋は堺筋線北浜駅付近にある。
駅の3・4階には「新京阪マーケット」が入っており、安さと品揃えの良さで人気を集めた。このほか、5・6階に新京阪の本社、7階に新京阪会館と北大阪倶楽部が入居しており、新京阪が京阪に合併されると、阪急に戦時統合されるまで当駅に京阪の本社事務所が置かれた。
プラットホームはビルの2階部にあり、櫛型のホーム5面と軌道4線を備えていた。当初はホーム北寄りを降車ホームとし、列車は降車客を降ろして奥に進み、乗車客の取扱いを行っていた。
また、2階南側壁面にガラス張りの開口部があり、将来的に南へ延伸することを想定したものとも言われるが、後年のビル改修工事の際に塞がれた。新京阪のターミナルであったことから、戦前には特急や急行はその多くが当駅発着であった。
1970年の大阪万博開催に備えて堺筋線が建設され、千里線と相互直通運転を行うことになった。それに合わせて当駅の地下化工事が行われ、工事期間中は天神橋駅に通じる単線の仮設線を設けて工事を行った。地下化後駅ビルは改装され天六阪急ビルとなって存続し、駅のホーム跡もはっきりと認めることができたが、再開発計画に伴い2010年に取り壊された。
大阪市電と阪神電車
当駅にはかつて阪神電車の北大阪線も乗り入れていたが、これは阪神国道線と同じく路面電車であり、駅も電停に類するものであった。複線の併用軌道が駅手前で単線になり、片側の線路敷を利用して安全地帯が設けられていた。電停ながら、「阪神電車のりば」と書かれた大きな看板が掲げられていた。駅跡は道路となっている。
新京阪鉄道の歴史
大正中期以降、阪神間においては、阪神電気鉄道の阪神本線と、阪神急行電鉄(阪急)の神戸線が激しい乗客獲得競争を繰り広げていた。この状況を、阪神急行電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が阪神間新線の免許を申請した時から見ていた京阪電気鉄道は、自社の保有する京阪本線に関する競合線が同様に出現し、利権が損なわれる事態へ発展することを危惧した。
この頃、京阪間の淀川右岸に高規格新線を敷設する計画が複数の企業から出ていたことから、京阪も自社線防衛を目的として地方鉄道法に基づく同様の路線免許の出願を行った。これは、国鉄線の運営と私鉄の免許許認可を含む監督業務を行っていた鉄道省の、阪神間のような熾烈な競争を憂慮する考えとも合致し、その敷設を行うための子会社として新京阪鉄道が設立された。
当初は、梅田に京阪本線(京阪梅田線)と共用の総合ターミナル駅を設ける予定であったが、諸事情があって当面は実現できないと見られたため、十三駅 - 淡路駅 - 千里山駅間の路線を所有していた北大阪電気鉄道を買収し、同社の所有していた免許を利用して大阪市内の天神橋(天六)に暫定ターミナルを設けることとした。
暫定ターミナルとは言っても、完成した天神橋駅(現天神橋筋六丁目駅)の駅舎(後の「天六阪急ビル」:2010年に解体)はアメリカのパシフィック電鉄などのインターアーバンのターミナルに範を取った、プラットホームを2階に設ける電鉄駅内蔵型高層ビルの日本における嚆矢となる、当時としては破格の高層建築物である。
また、京都側では地下線によって市内に乗り入れる予定であったが、工事には時間と多大な費用を要すること、そして昭和天皇即位大典が京都御所で催されることになっていたことから、暫定的に市の外れ、当時葛野郡西院村(1931年に京都市右京区へ編入)に駅を設置し、ここから京都市電・市バスなどで市街地へアクセスさせることにした。
1928年、天神橋 - 西院間を開業させたが、ほどなく1930年には京阪に吸収合併された。これは昭和恐慌の影響もあり、新京阪のみならず、本体の京阪も各方面への積極的な進出があだとなって多額の負債を抱えており、両社を統合して経営再建を図る目的があった。
なお京都市内への地下乗り入れに関しては、合併間もない1931年に京阪京都(現・大宮)までの延伸という形で果たされている。また京阪グループでは、将来名古屋方面までの路線延長を名古屋急行電鉄として計画していたが、これは恐慌の影響で立ち消えとなった。
新京阪鉄道では、車両は当時の最高水準を実現していた。特に1927年から製造した「6番目の旅客車両形式 Passenger car 6」を意味するP-6形電車は、全長19m・重量52t・出力800馬力という、当時日本で最大最強の高速電車であり、最速の「超特急」で天神橋-京阪京都間を34分(表定速度75.3km/h)で結んだ。また国鉄東海道本線の特急「燕」を並行区間で追い抜いたという逸話で知られる。
戦中の1943年には京阪電気鉄道と阪神急行電鉄が合併し、京阪神急行電鉄(阪急、1973年に阪急電鉄と改称)となった。戦後の1949年に京阪電鉄が京阪神急行から分離した際、元新京阪の路線は阪急に残り、京都本線・千里線・嵐山線となった。
このような歴史的経緯から、京都本線系統の各線は、車両技術・規格や施設面において阪急が自社建設した軌道条例 → 軌道法由来の路線とは多く異なる面があった。そのため現在でも、阪急自身が建設した神戸線・宝塚線系統の各路線を「神宝線」と総称し、京都本線系統の各線と区別することがある。
新京阪鉄道設立まで
- 1918年(大正7年)4月16日 京阪電気鉄道、軌道条例に基づく淀川西岸支線出願
- 1918年(大正7年)12月27日 延長線追願(山崎、長岡、桂、西京極、西院、四条大宮)
- 1919年(大正8年)7月21日 京阪電気鉄道に対して、特許状及び命令書→付帯命令あり
- 1920年(大正9年)2月21日 京阪電気鉄道、城東線払い下げ願書提出
- 1920年(大正9年)5月20日 京阪電気鉄道に対して、払い下げ許可の内諾
- 1920年(大正9年)5月24日 京阪電気鉄道、北区葉村町を淀川西岸線の大阪起点に変更する旨の申請書を提出
- 1921年(大正10年)11月14日 京阪電気鉄道、軌道特許を地方鉄道免許に変更
- 1922年(大正11年)4月25日 京阪電気鉄道、地方鉄道法による許可取得
新京阪鉄道
- 1922年(大正11年)6月28日 新京阪鉄道創立
- 1923年(大正12年)4月1日 北大阪電気鉄道から鉄道事業を譲受
- 1923年(大正12年)6月18日 淡路 - 上新庄免許
- 1923年(大正12年)9月5日 新京阪鉄道、十三 - 稗島地方鉄道敷設免許
- 1923年(大正12年)12月3日 豊津-箕面間支線免許申請(1925年10月22日却下)
- 1924年(大正13年)5月13日 京都電燈、松尾村(嵐山) - 新神足村(長岡天神) - 海印寺村(柳谷観音)地方鉄道免許。後に新京阪鉄道が譲り受け
- 1925年(大正14年)6月15日 新京阪鉄道、西吹田から高槻に至る第二の支線計画を申請
- 1925年(大正14年)10月15日 天神橋 - 淡路開業
- 1926年(大正15年)3月22日 新京阪鉄道、第二の支線計画を差換え手続き
- 1926年(大正15年)7月5日 下新庄 - 正雀軌道着工
- 1926年(大正15年)9月15日 茨木町 - 高槻町着工
- 1926年(大正15年)9月27日 新京阪鉄道、京都市と西院 - 四条河原町地下敷設契約を締結
- 1926年(大正15年)12月1日 高槻町 - 島本村着工
- 1927年(昭和2年)1月28日 正雀 - 茨木町着工
- 1927年(昭和2年)9月 大山崎 - 向日町着工
- 1927年(昭和2年)10月18日 新京阪鉄道、大宮 - 河原町免許取得
- 1927年(昭和2年)11月19日 正雀車庫竣工(1928年2月1日使用開始)
- 1927年(昭和2年)11月29日 新京阪鉄道、京都西院 - 四条大宮の工事施行認可
- 1928年(昭和3年)1月16日 淡路 - 高槻町開業。架線電圧を直流1,500Vに昇圧
- 1928年(昭和3年)2月 桂 - 西京極着工
- 1928年(昭和3年)10月20日 桂車庫竣工
- 1928年(昭和3年)10月30日 向日町変電所竣工
- 1928年(昭和3年)11月1日 高槻町 - 西院(仮駅)間開業
- 1928年(昭和3年)11月9日 桂 - 嵐山開業
- 1928年(昭和3年)6月12日 名古屋急行電鉄、大津市 - 名古屋の鉄道敷設免許出願
- 1928年(昭和3年)6月15日 京都地下線、西院 - 西大路四条着工
- 1928年(昭和3年)9月16日 正雀車両工場竣工
- 1929年(昭和4年)10月14日 第二の支線計画却下
- 1929年(昭和4年)2月20日 京都地下線、道路下区間工事準備
- 1929年(昭和4年)6月29日 京阪電気鉄道、名古屋急行電鉄免許
- 1929年(昭和4年)7月1日