阿部山麓から撮影(2009年5月23日) | |
北緯34度27分05秒東経135度48分19秒 / 北緯34.45125度 東経135.805278度 / 34.45125; 135.805278座標: 北緯34度27分05秒東経135度48分19秒 / 北緯34.45125度 東経135.805278度 / 34.45125; 135.805278 | |
奈良県高市郡明日香村 | |
円墳 | |
上段 直径9.4m 高さ2.4m 下段 直径13.8m 高さ90cm | |
7世紀から8世紀 | |
石棺 | |
不明 | |
壁画 | |
特別史跡 | |
壁画の保存事業が進んでいる |
概要
円墳であり、四神を描いた壁画があるなどの類似点から、高松塚古墳の「兄弟」といわれることがある。
年代
被葬者
誰が埋葬されているかは未だ判然としていない。年代などから、天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと見られている。また、金象眼が出土したことから、銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりも身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測される。
白石太一郎は、被葬者は右大臣の阿倍御主人(あべのみうし)であったと推定し、その根拠として、古墳周辺の一帯が「阿部山」という名前の地名であることを挙げている。岸俊男などもその蓋然性が極めて高いと考え支持している。直木孝次郎も阿部御主人を第一に挙げ、皇族では弓削皇子も考えられるとした[2]。阿倍御主人は大宝3年(703年)4月右大臣従二位、69歳で没した(『続日本紀』『公卿補任』)。
また猪熊兼勝は、天武天皇の皇子の高市皇子という説を主張。
構造
二段築成の円墳である。上段が直径9.4m、高さ2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さ90cm。
内部構造は横口式石槨で天井は家形になっている。石槨は凝灰岩の切石を組み合わせて作られており、内部は幅約1m、長約2.6m、高さ約1.3m。 奥壁・側壁・天井の全面には漆喰が塗られ、壁画がほどこされている。
壁画
東壁の青龍と西壁の白虎は右向きであり、すなわち青龍は南壁の朱雀のほうを向いており、白虎は北壁の玄武のほうを向いている。しかし中国においては、これとはことなり青龍も白虎もいずれも南壁の朱雀のほうを向いている。
四神の下に、それぞれ3体ずつ十二支の獣面(獣頭)人身像が描かれていると想定されているが、北壁・玄武の「子(ね)」、東壁・青龍の「寅(とら)」、西壁・白虎の「戌(いぬ)」、南壁・朱雀の「午(うま)」など6体の発見に留まっている。
同時代の中国や朝鮮半島では獣頭人身を象った浮き彫りや土人形が埋葬された墓が発見されているため、キトラ古墳は中国や朝鮮半島などの文化的影響を受けていたと考えられている。
しかし、2005年になって発見された「午」の衣装は、同じ南壁に描かれている朱雀と同じ朱色であった。このことは、十二支像がそれぞれの属する方角によって四神と同様に塗り分けられていることを推測させる。これは中国・朝鮮の例には見られない特色である。
天井には三重の円同心(内規・赤道・外規)と黄道、その内側には北斗七星などの星座が描かれ、傾斜部には西に月像、東に日像を配した本格的な天文図がある。この天文図は、中国蘇州にある南宋時代(13世紀)の淳祐天文図より約500年古く、現存するものでは東アジア最古の天文図になる。 描かれている星の総数は、277個である。
特別史跡キトラ古墳 墓道部の調査 現地見学会資料(2002年6月8日)
調査主体 | 文化庁文化財記念物課 |
調査機関 | 独立行政法人文化財研究所奈良文化財研究所 |
調査協力 | 奈良県教育委員会(奈良県立橿原考古学研究所) 明日香村教育委員会 |
所在地 | 奈良県高市郡明日香村大字阿部山字ウエヤマ136番地の1 |
規模と構造 | 円墳(二段、直径13.8m) 内部主体は横口式石槨(よこぐちしきせっかく:壁と天井に壁画) |
調査面積 | 15㎡ |
調査期間 | 2002年5月7日~もうすぐ終わります |
はじめに
キトラ古墳は、1978年墳にその存在が知られるようになった、7世紀後半から8世紀初め頃のいわゆる終末期の古墳です。1983年に横口式石榔内甑をファイバースコーブによって調査したところ(飛鳥保存顕彰会とNHK)、玄武の壁画が発見され、高松塚古墳(明日香村平田、1972年に壁画発見、特別史跡)に次ぐ、飛鳥の壁画古墳として一躍有名となりました。
その後は、明日香村が中心となって遺跡の調査と保存が進められました。1997年には範囲確認のための発掘調査が行われ、墳形と規模(上記)が判明しました。1998年3月、小型カメラによって石槨内部を再調査したところ、青龍・白虎と天文図が新たに発見されました。これを受けて、キトラ古墳は2000年11月に国特別史跡(国宝に値する遺跡)に指定されたのです。2001年3月には、3度目の石槨内部調査では、壁画としてはわが国初の朱雀が南壁で発見され、四神が揃ったのでした。
こうした一連の調査によって壁画と古墳の重要性が広く知られましたが、また、壁画自体が極めて危険な保存状態にあることもわかってきました。昨年度(2001年度)からは、文化庁がキトラ古墳の調査に直接関わることになり、壁画と古墳そのものを保存するための委員会を設置して検討を始めました。この委員会での意見をふまえ、2001年12月には壁画が描かれている石槨内部の保存状態を記録するために高解像度のデジタルカメラを石槨のなかに入れて撮影しました。この調査により、それまでわからなかった石槨の盗掘坑の状況がわかり、どのような保存処置ができるのかも検討できるようになりました。
今年、文化庁、そして委託を受けた奈良文化財研究所は、古墳と壁画の保存に万全を期すために、まず石槨内部と同じ環境を保てる仮覆屋を設置して壁画を保全する計画をたてました。キトラ古墳の今回の調査は、この仮覆屋を建設するために必要な基礎的資料の収集、なかでも石槨の南にある墓道に関して、その規模と構造を解明することを主な目的として調査に入りました。
調査の成果
調査では、まず、2001年3月と12月の内部調査前に発掘した探査坑を再発掘し、これを手がかりに東西4m×東側南北5m・西側南北3mの調査区を設定しました。横口式石槨南壁までは約1.3~1.5mを隔てています。発掘調査の結果、盗掘坑と墓道を確認しました。
盗掘坑 すでに、2001年3月の明日香村教育委員会の発掘調査でも確認されていたものです。今回の調査区北壁の断面で、東西幅約3m、深さ1.5mの規模です。盗掘坑の底近くには、盗掘時に破壊した、凝灰岩製石槨石材の砕片が散在し、盗掘の様子を生々しく物語っています。1点だけですが、やや大型の石材破片(長さ25cm)も出土しました。埋土から瓦器(表面に炭素を吸着させた黒っぽいお椀)の破片が出土したので、盗掘の時期は平安時代末から鎌倉時代と推定できます。
墓道 墓道とは、横口式石槨(よこぐちしきせっかく)へ棺を搬入し、さらに南の閉塞石(石槨南壁)を設置するためにもうけられた通路状の施設のことです。
墓道は古墳の墳丘盛土から掘り込まれ、幅2.35~2.65m(底面で2.3~2.45m)、調査区北辺での深さは1.5mです。この墓道は、東側で3.5m、西側で1.8mの長さ残っていました。西側で短いのは、古墳西南部が後世に削られてしまったためです。今回の調査区は石槨南壁と1.3mを隔てるので、墓道の残存長は、東側で約5mと推算できます。西壁は真北より北で西に5度、東壁は北で西に11度振れているので、ごくわずかですが南で広くなっています。
墓道の床面は、最も高い北側(石槨側)0.3mだけがほぼ水平で、それから南側は緩く南に傾斜します。水平な北側床面の高さは推定される横口式石槨床面の高さとほぼ等しいので、このままの高さで石槨まで延びていると推測してよいでしょう。
墓道は、下のほうが堅い版築土で埋められ、その上には多少突き固めてはありますがやや軟質の土を重ねています。埋土は墳丘の基盤層(版築土層)や積み土(墳丘土)とは土質に違いがあるので、後から埋めたことがわかります。埋土からは、土師器と須恵器の小さな破片が出土しましたが、時期を特定できるものではありませんでした。
コロのレール痕跡 墓道の床面には、南北方向に3条(あるいは4条か)のコロのレール痕跡がみつかりました。コロのレールとは、閉塞石(南側側壁)を運び上げたときのコロ(転)の下にそれと直交して置いた木材を指し、それを抜き取った痕跡が残っていました。床面に張られた茶褐色の粘質土とよく似た土で埋められ、東西の2条は幅約15cm、心々距離(溝の中心同士を測った距離)は1.35m(内法の距離1.2m)です。中央の1条は、土層堆積観察用の畦に大半が隠れていますが、幅約60cmあります。レール痕跡の方位は、真北から西に8度振れています。これは墓道の東西両壁の振れを平均した値に一致し、横口式石槨の方位を反映している可能性があります。
墓道と石槨との関係 横口式石槨の南西隅を開口している盗掘坑の位置とこれに沿って挿入されたガイドパイプ(内径15cm)の位置から判断して、墓道は横口式石槨の南側正面に正しく位置すると判断できます。それ以外の詳細は、残された石槨との取り付き部の調査に期待したいと思います。
http://www.kashikoken.jp/from-site/2002/kitora1.html
キトラ古墳は、1978年墳にその存在が知られるようになった、7世紀後半から8世紀初め頃のいわゆる終末期の古墳です。1983年に横口式石榔内甑をファイバースコーブによって調査したところ(飛鳥保存顕彰会とNHK)、玄武の壁画が発見され、高松塚古墳(明日香村平田、1972年に壁画発見、特別史跡)に次ぐ、飛鳥の壁画古墳として一躍有名となりました。
その後は、明日香村が中心となって遺跡の調査と保存が進められました。1997年には範囲確認のための発掘調査が行われ、墳形と規模(上記)が判明しました。1998年3月、小型カメラによって石槨内部を再調査したところ、青龍・白虎と天文図が新たに発見されました。これを受けて、キトラ古墳は2000年11月に国特別史跡(国宝に値する遺跡)に指定されたのです。2001年3月には、3度目の石槨内部調査では、壁画としてはわが国初の朱雀が南壁で発見され、四神が揃ったのでした。
こうした一連の調査によって壁画と古墳の重要性が広く知られましたが、また、壁画自体が極めて危険な保存状態にあることもわかってきました。昨年度(2001年度)からは、文化庁がキトラ古墳の調査に直接関わることになり、壁画と古墳そのものを保存するための委員会を設置して検討を始めました。この委員会での意見をふまえ、2001年12月には壁画が描かれている石槨内部の保存状態を記録するために高解像度のデジタルカメラを石槨のなかに入れて撮影しました。この調査により、それまでわからなかった石槨の盗掘坑の状況がわかり、どのような保存処置ができるのかも検討できるようになりました。
今年、文化庁、そして委託を受けた奈良文化財研究所は、古墳と壁画の保存に万全を期すために、まず石槨内部と同じ環境を保てる仮覆屋を設置して壁画を保全する計画をたてました。キトラ古墳の今回の調査は、この仮覆屋を建設するために必要な基礎的資料の収集、なかでも石槨の南にある墓道に関して、その規模と構造を解明することを主な目的として調査に入りました。
調査の成果
調査では、まず、2001年3月と12月の内部調査前に発掘した探査坑を再発掘し、これを手がかりに東西4m×東側南北5m・西側南北3mの調査区を設定しました。横口式石槨南壁までは約1.3~1.5mを隔てています。発掘調査の結果、盗掘坑と墓道を確認しました。
盗掘坑 すでに、2001年3月の明日香村教育委員会の発掘調査でも確認されていたものです。今回の調査区北壁の断面で、東西幅約3m、深さ1.5mの規模です。盗掘坑の底近くには、盗掘時に破壊した、凝灰岩製石槨石材の砕片が散在し、盗掘の様子を生々しく物語っています。1点だけですが、やや大型の石材破片(長さ25cm)も出土しました。埋土から瓦器(表面に炭素を吸着させた黒っぽいお椀)の破片が出土したので、盗掘の時期は平安時代末から鎌倉時代と推定できます。
墓道 墓道とは、横口式石槨(よこぐちしきせっかく)へ棺を搬入し、さらに南の閉塞石(石槨南壁)を設置するためにもうけられた通路状の施設のことです。
墓道は古墳の墳丘盛土から掘り込まれ、幅2.35~2.65m(底面で2.3~2.45m)、調査区北辺での深さは1.5mです。この墓道は、東側で3.5m、西側で1.8mの長さ残っていました。西側で短いのは、古墳西南部が後世に削られてしまったためです。今回の調査区は石槨南壁と1.3mを隔てるので、墓道の残存長は、東側で約5mと推算できます。西壁は真北より北で西に5度、東壁は北で西に11度振れているので、ごくわずかですが南で広くなっています。
墓道の床面は、最も高い北側(石槨側)0.3mだけがほぼ水平で、それから南側は緩く南に傾斜します。水平な北側床面の高さは推定される横口式石槨床面の高さとほぼ等しいので、このままの高さで石槨まで延びていると推測してよいでしょう。
墓道は、下のほうが堅い版築土で埋められ、その上には多少突き固めてはありますがやや軟質の土を重ねています。埋土は墳丘の基盤層(版築土層)や積み土(墳丘土)とは土質に違いがあるので、後から埋めたことがわかります。埋土からは、土師器と須恵器の小さな破片が出土しましたが、時期を特定できるものではありませんでした。
コロのレール痕跡 墓道の床面には、南北方向に3条(あるいは4条か)のコロのレール痕跡がみつかりました。コロのレールとは、閉塞石(南側側壁)を運び上げたときのコロ(転)の下にそれと直交して置いた木材を指し、それを抜き取った痕跡が残っていました。床面に張られた茶褐色の粘質土とよく似た土で埋められ、東西の2条は幅約15cm、心々距離(溝の中心同士を測った距離)は1.35m(内法の距離1.2m)です。中央の1条は、土層堆積観察用の畦に大半が隠れていますが、幅約60cmあります。レール痕跡の方位は、真北から西に8度振れています。これは墓道の東西両壁の振れを平均した値に一致し、横口式石槨の方位を反映している可能性があります。
墓道と石槨との関係 横口式石槨の南西隅を開口している盗掘坑の位置とこれに沿って挿入されたガイドパイプ(内径15cm)の位置から判断して、墓道は横口式石槨の南側正面に正しく位置すると判断できます。それ以外の詳細は、残された石槨との取り付き部の調査に期待したいと思います。
http://www.kashikoken.jp/from-site/2002/kitora1.html