ピューリッツァー賞
卓越した新聞報道・文学活動・楽曲作曲 | |
コロンビア大学 | |
アメリカ合衆国 | |
1917 | |
www.pulitzer.org |
ピューリッツァー賞(ピューリッツァーしょう、英: Pulitzer Prize[† 1][† 2])は、新聞等の印刷報道、文学、作曲に与えられる米国で最も権威ある賞である。コロンビア大学ジャーナリズム大学院が、同賞の運営を行っている。
沿革
ニューヨークワールド紙の発行者だったジョゼフ・ピュリッツァーは、1903年4月10日に死後の財産のうちコロンビア大学にジャーナリズム学部を創設するために200万ドルを寄付する協定にサインしたが、そのうち50万ドルをピュリッツァー賞にあてるという条項があった。
ピュリッツァーは記者の資質の向上を願い、やがてコロンビア大学のジャーナリズム学部はミズーリ大学コロンビア校やノースウェスタン大学メディル・ジャーナリズム学院と並ぶ三大ジャーナリズム学部の一角となる[1]が、ピュリッツァー賞は彼の思惑以上に権威を持つことになる。ピュリッツァーが自らニューヨーク・ワールドで語った内容によると、「社会的不正義と当局の汚職の摘発こそ、審査を貫く基準である」と語り、その基準によって「公益」部門を最上の賞として金メダルを設定した。そのため、権力側が隠蔽していた不正の報道による受賞は、1992年の時点では全体の40%を占めている。
ピューリッツァーの対象となる部門は、遺言を元に当初9部門の賞が設定された。すなわち、ジャーナリズム部門が公益、報道、社説、新聞史の4つ、文学が小説、伝記、アメリカ史の3つ、「戯曲」が1つ、そして「ジャーナリズム学部の発展と改善」をテーマにした論文の1つを賞の対象とした。
しかし、新聞史は1918年度のみ受賞者が出ただけで以後取りやめとなり、論文に至っては応募がまったくなかったため、これも中止された。1922年には「時事漫画」が追加され、1942年には「写真」分野も追加される。また取材対象の広がりにあわせてジャーナリズム部門は細分化し、写真分野も1968年に特集写真部門とニュース速報部門の二つに分割された。
また、文学も加重されていき、1922年には詩が追加され、1962年にはノンフィクションを追加、さらに小説分野はフィクションに改められ、対象の分野を広げた。1943年には新たに音楽のジャンルも追加されている。
賞金は開始当初のもので、公益が金メダル、アメリカ史が2,000ドル、その他1,000ドルとなっており、その後一律で1,000ドルとなった。その額は物価の変動に関わらず長い間据え置きとなり、1989年にようやく3,000ドルに引き上げられた。
選考
審査基準
必要とされるのは、「卓越したdistinguished」ものであること。ピューリッツァーの残した言葉は「ザ・ベスト」であったが、絶対的な基準を設定するのは不可能だという議論が起こり、妥協して卓越したという表現に落ち着いた。
ピューリッツァー賞は「アメリカ」に関わるものが対象となり、文学と戯曲もアメリカの生活を描写したもののみを対象とする。もちろん、その作者もアメリカ人でなければならない。ただし、ジャーナリズム部門はあくまでも「アメリカの新聞」にのることだけが条件であり、そのため日本人も写真部門では海外の新聞社に取り上げられ、実際に受賞している。
ジャーナリズム部門
アメリカで発行された新聞に掲載されることが第一の条件となる。受賞対象年度の翌年2月1日をその締め切りとし、4月半ばに受賞者が公表される。応募の際には、審査手数料20ドルが必要。審査はまず、ピュリッツァー賞委員会事務局によって任命された審査委員(英語: Jury)が行う。各部門につき3人が任命され、その審査員の地位は、権威ある記者、デスク、編集局長らがほとんどとなり、事前に公表される。
任期は2年を超えることが許されず、毎年半数が代わっていく。毎年のジャーナリズム部門の応募総数は平均で約1,800件であるが、以前は1日の審査ですませていたが、1981年に「ジミーの世界」虚報事件が起こったため、二日に渡ってコロンビア大学ジャーナリズム学部にこもって入念に審議することになった。
各部門3件まで絞った後は、その結果を順位をつけずに本審査となるピュリッツァー賞委員会(英語: Pulitzer Prize Board)へ送り、ピュリッツァー賞委員が受賞者を決定する。このピュリッツァー賞委員会はコロンビア大学学長、ジャーナリズム学部長、新聞の経営者、編集長、大学教授ら18名によって構成され、任期は3年を3期まで、つまり最大で9年まで委員をつめることができた。また、ピューリッツァー賞委員が新聞の経営者で、選ぶ対象に自らの新聞の応募する記事があった場合は、自らその審査から外れるのが慣例となっている。
1975年まではコロンビア大学の理事会が最終的な決定をする権利を有していたが、理事会には財界人がしばしば名を連ね、関連する記事の受賞に反対することが度々あった。これはピュリッツァーの精神とは完全に外れた行為であったため、現在では理事会は審査にはまったく関わることはできなくなっている。