元寇・文永の役(上) モンゴル・朝鮮軍が日本で行った“殺戮”…それでも日本の武士「勇敢にして死をみること畏れず」
今から740年前、中国全土をほぼ手中にし、日本も従属させたいモンゴル帝国(元)皇帝のフビライ・ハーンは朝鮮半島を治める高麗と連合で3万以上の兵を派遣する。元寇(げんこう)と呼ばれる日本本土が2度にわたり侵略を受けた事件である。対する日本は鎌倉幕府執権・北条時宗の命で集まった御家人ら約1万人。武勲をあげて所領拡大を目指した御家人らの士気も高かったが、兵力の差もさることながら、集団戦法と未知の兵器を前に日本の武士は次第に翻弄されていった。
フビライは武力による日本進攻を決意。軍船を造るにあたって、文永11(1274)年1月、戦艦300隻など軍船の建造を高麗に命じている。
平成23年、長崎沖の海底から弘安4(1281)年の2度目の元寇で使ったとみられる沈没船が見つかっている。ほぼ完全な状態だったため復元してみると全長が27メートルに及んだ。
これは当時の海外渡航用の貿易船と同じ構造で、一隻で100人程度の兵士が収容できる規模だったといい、1回目の進攻作戦でもこのような船を求めたことだろう。
だが、日本に大船団を出すのに風向や潮の流れなどを考えると、建造期間は半年しかなく、元が派遣したホン・タグの指揮の下、高麗は約3万人の労働者を動員して、昼夜関係なく突貫に次ぐ突貫の作業だったという。
その様子は、「疾(はや)きこと雷電のごとし。民、これに苦しむ」などと表現されている。
連合軍の船は、戦艦のほか上陸用舟艇、補給船などからなり、日本近海は巨大なマストがたなびく、おびただしい数の軍船で埋め尽くされていた。
時宗も高麗へ送り込んだスパイから間もなく攻めてくることを察知し、上陸が予想される九州北部の日本海沿岸に兵を配するも、まずは数で圧倒されることになる。
10月5日、対馬の小茂田浜に上陸した元・高麗連合軍により、島を守る対馬守護代、宗資(助)国ら80人の兵や島民はことごとく殺害される。
壱岐でも惨殺を繰り返し九州沿岸に迫ってきた連合軍に16、17の両日、肥前・松浦や平戸島、鷹島などが次々に攻められ、討たれた兵の数は数百にのぼったともいわれている。
対馬、壱岐での敗戦の報に接した御家人らはただちに九州の拠点・大宰府へ向かい、その結果、九州の御家人を統括する鎮西奉行・少弐資能(しょうにすけよし)の3男、景資(かげすけ)を総大将に集まった兵は約1万人。
だが、元・高麗連合軍の動きは早く、20日に主力部隊の博多上陸を許す。3方から上陸する兵力は2万人
元寇・文永の役(中) 赤ん坊を股裂き、子供を奴隷として拉致、女性は手に穴開け数珠つなぎ…博多を血と炎で染めた蒙古・朝鮮軍の残虐・非人道行為
九州・博多から侵略する2万人にのぼる元・高麗連合軍は、兵の数の優位と鉄炮(てっぽう)なる新兵器、集団戦法などを駆使し、日本の武士団を撃破しては町を焼き払い、逃げる民間人を殺すなどやりたい放題。また、捕らえた女性をひもで数珠つなぎにし、日本の攻撃から船を守る盾(たて)にしたほか、拉致した子供を奴隷として高麗国王に献上するなど、残酷で非人道的な行為も数限りなかった。
侵略される町々
文永11年10月20日、船で博多湾に集まった元・高麗連合軍の兵は早朝を期して上陸を始めた。日本側は鎌倉・北条時宗と京都へ敵襲来の知らせと援軍を求める急使を送ると、大宰府に本陣を置き、至急集まった周辺の御家人ら総勢5千数百人で待ち構えた。
最初に戦闘状態に入ったのは午前10時ごろ。場所は上陸地点のひとつ、百道(ももち)原をさらに進んだ麁原(そはら)。相手はキム・バンギョン率いる高麗軍約4500人で、迎え撃つ日本側は約1300人とも。
前日に元軍のホン・ダク率いる先遣隊が占拠した小高い「麁原山」周辺をめぐる攻防戦とみられるが、数で劣るのに単独で突っ込んでいく日本に対し、鉄炮などの新兵器と集団戦を展開する高麗軍にじりじり押される。
ここで菊池武房らは約3キロ東の赤坂に撤退することを決め、途中に湿地帯が広がる鳥飼潟へ高麗軍を誘い込む。すると、術中にはまった高麗軍はぬかるみに足をとられて思うように進むことができず、戦闘は膠着(こうちゃく)状態に陥る。
一方、元・高麗連合軍約5400人に上陸された箱崎には島津氏、少弐氏、大友氏などから1000人しか動員ができず、いきなり劣勢に立たされる。
当時の高麗の様子についてもこのように書かれている。
《働き盛りの男は船の建造にとられ、兵士の多くは戦いで負傷したほか、帰国中の暴風雨で溺死したため今では国内には老人と子供だけ。しかも日照りなどが続き稲も実らず、草や葉で飢えをしのいだ》
30年間にわたる抵抗も及ばず、1259年に元の支配下に置かれると、属国としての道を歩むことになった高麗の悲哀を物語る話である。
当時の高麗王の忠烈王は高麗が元に帰属した後、人質として皇帝、フビライ・ハンの下で長年暮らし、フビライの娘を夫人に迎えるなど、“モンゴル一族”に変心して帰国している。
そして、フビライに日本侵略を進言したのも忠烈王だったともいわれ、王はそのときの助成も買って出たのだという。
7年後の1281年、第一回の4倍の16万の兵をもって再び日本を攻める。
一方、鎌倉幕府は元寇来襲に備えて今回、戦場となった周辺に防塁を築き、兵力を増強する。またこの戦いで焼失した筥崎(はこざき)宮が再建されると、亀山上皇が「敵國降伏」の扁額を納めるなど各地で元寇退散の機運が高まった。