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[転載]壱岐・対馬の無残

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壱岐・対馬の無残
 『日蓮註画讃』
 『二島百姓等。男或殺或捕。女集一所。徹手結附船。不被虜者。無一人不害。』

 「壱岐対馬の二島の男は、あるいは殺しあるいは捕らえ、女を一カ所に集め、手をとおして船に結わえ付ける。虜者は一人として害されざるものなし。」
 また、『一谷入道御書 建治元年五月八日』にも
 「百姓等は男をば或は殺し、或は生取りにし、女をば或は取り集めて、手をとおして船に結び付け、或は生取りにす。一人も助かる者なし。」
 日本人を拉致してきたことは、高麗側の記録にも残っている。
 帰還した高麗軍の将軍が、2百人の男女の子供を高麗王とその妻に献上したと。
 『高麗史節要』
 『俘童男女二百人献王及公主。』
 また捕らえた女の手に穴をあけて徹したことの記述であるが、
『日本書紀天智帝二年紀』に、『百済王豊璋嫌福信有謀叛心。以革穿掌而縛。』
「百済王豊璋は、鬼室福信に謀反心があるとして、手のひらに穴を穿って革紐をとおして縛った。」

 とある。
 百済の時代にもあった朝鮮半島伝統の風習らしい。

 興味あることに、現代においてもそれがかの国には残っていることが韓国の新聞に報道されている。(

 朝鮮日報2002/4/24付
 それによれば、2002年4月16日に中朝国境付近の中国側で、北朝鮮の保安員(警察)が脱北者100人余りの集団を連行する姿を、あるアメリカ人が目撃したという。脱北者たちのほとんどは30~40才代の男性で、20代の女性や年寄りの女性や子供も何人かおり、彼らは、手に針金を突き通され、さらに鼻にリングを刺してそれも針金に通された姿だったと言う。保安員等はトラックの荷台に彼等を乗せ、その時、針金をトラックに結わえ付けていたという。

 まことに、想像するのも寒気がする光景である。拉致と残酷行為は、あちらの文化なのであろうか。
 先の『高祖遺文録』は、
 『皆、人の当時の壱岐対馬の様にならせ給わん事思いやり候へば、涙も留まらず。』と結んでいる。
 
 
 
 
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鎌倉時代の日本は、2度にわたるモンゴル帝国)とその属国高麗による侵略(元寇)を受けた。対馬はその最初の攻撃目標となり、史上最大の受難を迎えることとなった。
 1274年(文永11年)、蒙古兵25,000人、高麗兵8,000人および水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、10月5日佐須浦に殺到した。
 この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い果敢に迎撃したが、圧倒的な兵力差により勇戦及ばず全員玉砕した。『日蓮聖人註画讃』によると、上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえつけたという。これが文永の役である。
 1281年弘安4年)に2度目の日本への侵略弘安の役が起こった。元・高麗軍の陣容は、合浦(現在の馬山市)より侵攻した蒙古兵15,000人、高麗兵10,000人、水夫等17,000人より構成される東路軍と、寧波より侵攻した旧南宋兵100,000人主体の江南軍であった。
 弘安の役においても残虐行為は再び繰り返された。『八幡愚童記』正応本には、
其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民ささへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり。
と記されており、とくに高麗兵の残虐性を詳細に伝えている。
  • 日本の文永11年・元の至元11年10月(1274年11月)に、都元帥・忽敦[29]、右副元帥・洪茶丘左副元帥・劉復亨らの率いる蒙漢軍および金方慶らが率いる高麗王国軍、操船要員を含む3〜4万人を乗せた大小900艘の船団が朝鮮半島の合浦(現在の大韓民国馬山)を出発した。
  • 元軍は10月5日午後四時頃に対馬小茂田浜に上陸する。対馬守護代宗資国は八十余騎で応戦するが戦死し、元高麗連合軍は対馬全土を制圧後、1週間にわたって全域を蹂躙した。同日、対馬佐須浦から小太郎・兵衛次郎が出航し博多へ知らせた。
  • 文永の役から翌々年に書かれた日蓮の書簡によると伝聞として、この時民衆を殺戮し、生き残った者(主に女)の手の平に穴を開け、そこに革紐を通して船壁に吊るし見せしめや矢除けにしたという。
  • 高麗の将軍・金方慶が帰還後、文永の役で捕虜とした子供男女200人を高麗王忠烈王と妃のクビライ公主、クトゥルクケルミシュに献上したという記録が、高麗側に残っている。
 
 
1274(文永11)年10月総兵力2万5千人、900隻の大船団をもって対馬を侵略した。宗家初代当主、宗資国【すけくに】<助国>はわずか80余騎でこれを迎え打ち小茂田浜で奮死した。
 壮絶な死をとげた資国公の墓所は、740年を経た今日、お胴塚、お首塚として、それぞれ別のところに伝承されている。
 
 
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御首塚
 
 
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平景隆

 平 景隆(たいら の かげたか、生年不詳 - 文永11年10月15日1274年11月14日))は、鎌倉時代中期の九州の武士。壱岐国守護代。贈正四位。通称は内佐衛門。平経高平景高とも。
 
 壱岐国の守護少弐氏で、景隆はその家人であったと考えられる。『八幡愚童訓』によれば、文永の役の文永11年(1274年)10月14日申の刻(午後4時から6時頃) 、蒙古軍が壱岐島の西岸に上陸すると、景隆は百余騎の武士を率いて馳せ向かい、庄三郎という者の城の前で矢を射かけて蒙古軍を迎え撃った。
 しかし圧倒的大軍で押し寄せる蒙古軍にたちまち追い詰められ、景隆らは守護所の詰城である樋詰城に立て籠もった。日没とともに蒙古軍は船団に引き上げ、翌日景隆が篭る樋詰城を攻撃、景隆一同は城中で自害した。景隆の下人の宗三郎が博多へ渡ってこのことを報告した。景隆の自害により蒙古軍は壱岐を制圧し、多数の島民が殺害された。
 
 明治維新後、全国的に忠臣の顕彰運動が高まり、刀伊の入寇弘安の役の戦死者とともに新城神社長崎県壱岐市勝本町)に祀られた。1896年(明治29年)10月23日、正四位を追贈された。
 
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転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る


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