ロバートバウン号事件
1852年2月、厦門(アモイ)で集められた400人余りの苦力(クーリー)が、米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中、辮髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねてついに蜂起して船長ら7人を打ち殺しました。
船はその後台湾に向かいましたが石垣島沖に座礁、380人が島に上陸。 石垣の人々は仮小屋を建て、彼らを収容しました。 しかし米国と英国の海軍が三回にわたり来島、砲撃を加え、武装兵が上陸してきびしく捜索を行いました。
船はその後台湾に向かいましたが石垣島沖に座礁、380人が島に上陸。 石垣の人々は仮小屋を建て、彼らを収容しました。 しかし米国と英国の海軍が三回にわたり来島、砲撃を加え、武装兵が上陸してきびしく捜索を行いました。
中国人達は山中に逃亡しましたが、銃撃、逮捕され、自殺者、病没者も続出したとの事です。 琉球王朝と蔵元は人道的に対応、その後事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、翌1853年9月、琉球側が船二隻を仕立て、生存者172人を福州に送還。 ここで亡くなられた中国人を祭ったのが石垣島にある唐人墓です。
西里喜行「バウン号の苦力反乱と琉球王国 揺らぐ東アジアの国際秩序」
日本で言えば幕末の1852年。当時、西洋人の手によって半ば奴隷貿易に近い形で中国人苦力を米国西海岸に送る「苦力貿易」に携わる人買い船が太平洋を往来していた。アメリカ船籍ロバート・バウン号もその一つであり、四百余名の中国人苦力を載せて廈門からカリフォルニア州に向け航海中であったが、弁髪を切り落とし、病者を海に投げ込むという、さながら大西洋の奴隷船と変わらぬ西洋人達の虐待に耐えかねた苦力はついに洋上で暴動を起こし船を台湾に向ける。しかしかなわず石垣島崎枝村沖に漂着。琉球からみれば辺地の八重山の行政官達は、四百余名の難民の処遇と英・仏・清の絡む複雑な国際関係という途方もない難題を突きつけられることになった…
「紳士の国」だの「不朽の自由」だの「民主主義は普遍的な価値」を標榜している国の、少し前の蛮行と日本の正義の記録。
「紳士の国」だの「不朽の自由」だの「民主主義は普遍的な価値」を標榜している国の、少し前の蛮行と日本の正義の記録。
ロパート・パウン号事件の歴史的意義
①ロパート・パウン号事件は,欧米資本主義列強の苦力貿易の実態を暴露した。事件の直接的原因がパウン号船長プレイスン(LBryson)らの苦力虐待にあったことは,広州駐在のアメリカ代理公使パーカーでさえ認めており,「きわめて遺憾なことに,プレイスン船長が苦力を虐待したという伝聞は,現在では直接的に証明されている」(1852年5月17日付の米極東艦隊司令あて書簡)と言明せざるをえなかった。広州駐在のイギリス領事パウリング(BowringSirJohn)も,1852年ごろの厘門における「猪仔館」(出港前の苦力収容所,パラクーン)の状況について,次のように述べている。-「幾百人もの苦力が猪仔館に集められ,まる裸にされ,各人の予定された目的地に応じて胸にC〔キューバ〕,P〔ペルー〕,S〔サンドウィッチ島〕などの文字を書きこまれ押印されていた」
(1852年8月3日付のマームズベリー英国外務大臣あて書簡)と。
②事件の直接的原因が苦力虐待にあることを自認しながらも,中国駐在のイギリス・アメリカ領事たちは,緊密な協力のもとに苦力捕獲作戦を展開し,公然と東アジアの国際秩序を侵犯した。のみならず,広州駐在のアメリカ代理公使パーカーの如きは,中国地方当局がパウン号事件関連の苦力の無罪を宣言して放免したことに抗議し,不平等条約(望厘条約)を拠りどころにして,アメリカの法律による裁判を執擁に要求した。この事実の
、、なか|こ,海外渡航を禁止する清国の法律及び東アジアの国際秩序を完全に無視して,欧米の価値基準・権威や法律(いわゆる国際法をも含めて)をストレートに東アジアへも貫徹させようとする欧米列強の意図が,すでに先駆的に暴露されているといえるのではなかろうか。
、、なか|こ,海外渡航を禁止する清国の法律及び東アジアの国際秩序を完全に無視して,欧米の価値基準・権威や法律(いわゆる国際法をも含めて)をストレートに東アジアへも貫徹させようとする欧米列強の意図が,すでに先駆的に暴露されているといえるのではなかろうか。
③イギリス・アメリカが多数の兵員を石垣島へ上陸させて苦力捕獲作戦を展開したことは,東アジアの伝統的な国際秩序に対する重大な侵犯であり,清国・日本(薩摩藩)はもちろん,当の琉球側もイギリス・アメリカの明らさまの国際秩序侵犯行為に,なんら抗議しなかったし,また抗議する能力をもちあわせていなかった。このこ
とは,すでに伝統的な東アジア世界の国際秩序維持機能が失われつつあったことを物語っているといえよう。
④琉球側はイギリス・アメリカの武力を恐れて,苦力捕獲作戦を黙認せざるをえず,あるいはまた慣例通りに残留苦力を福州へ護送する計画を一時中止せざるをえなかったけれども,可能な限り伝統的な国際秩序に従って事を処理し,尽そうと努力した。石垣島に一年七か月にわたって残留した苦力たちに対しても,琉球側は「該難人,実に天朝の民に係るも,今は遠く海島に在り,郷を離れて日久しく,誠に憐むくきに属す」(歴代宝案,第二集,巻194)という観点から手厚い保護を加えた。この事実は,琉球の国際意識=「国際連帯」の観点を具体的に例示するものであり,今日に継承・発展させられるべき貴重な「遺産」であるといえよう。
⑤ロパート・パウン号の苦力たちが琉球から清国へ護送された後,最終的にどのように取り扱われたのかはよくわからない。しかし,両広総督の徐広繕が広州駐在のアメリカ公使パーカーの執勘な干渉を却けて,苦力18名のうち17名に無罪を宣告したことは注目すべきである。この事実は,徐広緒のような地方当局者でさえ,欧米資本家の非人道的な「苦力貿易」に対して憤激し,ある種の「民族主義」的な感情をもつにいたったことを示しているのではなかろうか。
このような「民族主義」的感`情は,「苦力貿易」の拠点となった開港都市の民衆に共有され,ロパート・パウン号事件の真相が知れわたることによって,より一層増幅され,高揚させられた。たとえば,広州駐在のイギリス領事パウリングは,1852年7月16日付の外務大臣マームズベリあての書簡において,ロパート・パウン号で船長らを殺害し厘門へ連行されてきた苦力たちの散布する伝言のため,イギリス商社のハバナ向け苦力輸送に困難が生じている旨報告している。
また,同年11月21日から24日にかけて展開された厘門民衆の苦力貿易反対運動は,「民族主義」的感情が爆発したもっとも具体的な例証であるといえよう。イギリス側は民衆暴動の拡大を恐れ,英艦サラマンダー(Salamander)の陸戦隊を厘門へ上陸させ,中国人4名を銃殺,5名以上を負傷させることによって,辛うじて民衆の苦力貿易反対運動を鎮圧したが,イギリスの苦力貿易そのものは重大な困難を被らざるをえなかった(HBMorse,“ThelnternationalRelationsofTheChineseEmpire''Vol、1.p、401-403)。