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[転載]ベトナムの歴史

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ベトナムの歴史

ベトナムの歴史(ベトナムのれきし、Lịch sử Việt Nam)では、ベトナム多数民族であるキン人を中心としたベトナムの歴史について扱う。 中世以前の南ベトナムについてはチャンパ王国で詳しく扱う。
 
 
 
 

原始

旧石器時代
新石器時代
  • 約1万年~4000前 - ホアンビン、バクソン、クインバン、ハロン、バウチョーの洞窟から磨製石器(短斧・有肩石斧などの刃先を研磨した道具)、礫石器、骨角器が、バクソン、クインバン、ハロンからは土器や石製の鋤・鍬が見つかっている。この時代には、様々な石材を用いて斧・縦斧(刃の片方だけを磨いている斧)・磨石などがつくられた。また、竹・木・骨・角などもつかって道具がつくられるようになった。
  • 自然の採集活動の他にも農耕を行うようになり野菜・豆・カボチャ・ひょうたんなども栽培され、食物に供されるようになった。また、土器の出現によりいろいろな食物・肉類の煮沸が可能となり食生活の改善に繋がったのではないか。さらに、穀類や堅果類を保存することができるようになり食生活豊になり、生活も向上したと考えられる。豚などの畜産や犬などの家畜も飼育されるようになった。
  • 食糧の供給が安定してくると集団で定住するようになり、人口も増えてきて同じ血統の人々が一緒に生活するようになり社会が構成されるようになった。母系制氏族社会ができ、数千年の間続いた。

古代

  • 文郎国(ヴァンラン国, Văn Lang) - 伝説上 - 紀元前8~7世紀頃、北部と北中部にある大河川のデルタ地域に大きな部落(チェンやチャーと呼ばれた)がいくつか形成されるようになった。これらのなかで豊かな者と貧しい者の格差が生じた。その差は次第に大きくなっていった。水稲稲作農業が始まっていた。洪水から収穫をまもるために指導する人が必要になった。さらに、他の部族との衝突や部落内での衝突が起こった。このようななかで文郎国が誕生した。
  • 甌雒(アウラク, Âu Lạc) - 伝説上の国家とする考えが有力(前257年 - 前207年紀元前257年、秦と先頭になって戦った獨泮(トゥクファン)は、文郎国の王雄王に譲位を迫った。西瓯・駱越の2国は甌雒(アウラク, Âu Lạc)として新しい国が誕生した。獨泮は安陽王(アンズオンヴオン、An Dương Vương)と名乗り、都を封渓(フォンケー、現在のハノイ市ドンアイン県コーロア)に置いた。紀元前218年、秦は国土拡大のため南方へ進軍し、4年間の戦いの後、甌雒の北部まで近づいた。そこは、西瓯(タイアウ)人・駱越(アウヴェト)人の地域であった。西瓯・駱越の住民が戦い、6年後に秦軍を退却させた。
  • 北属期(中国王朝による支配) - (前214年 - 前207年
  • 南越国(ナムベト国, 趙朝, 趙氏南越国, Nam Việt, Triệu) - (前207年 - 前111年
 
 

北属期

  • 北属期(からまでの中国王朝支配期) - (前111年 - 938年)
    • ただし、以下に掲げる諸勢力は、中国王朝から一定の独立性を保ったか、或いは中国王朝に反乱を起して一定期間勢力を保ち、ベトナムの古典籍上で王朝或いはそれに類する特別な地位を認められたもの。現代ベトナムの歴史教育においては、これらのうち幾つかを独立王朝として扱うものもある。
 

フランス領インドシナ

 
 ベトナムの植民地化を図るフランスは、1883年癸未条約英語版・1884年の甲申条約英語版によってベトナムを保護国化した。ベトナムへの宗主権を主張してこれを認めない朝を清仏戦争で撃破し、1885年の天津条約で清の宗主権を否定した。1887年にはフランス領インドシナ連邦を成立させ、ベトナムはカンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。
 
 1900年代になると、知識人の主導で民族運動が高まった。ファン・ボイ・チャウは、日本に留学生を送り出す東遊運動(ドンズー運動)を展開した。
 1917年ロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、コミンテルンが結成され植民地解放を支援した。こうした中で、コミンテルンとの連携のもとでの民族運動が強まった。1930年にはインドシナ共産党が結成され、第二次世界大戦中のベトミン(ベトナム独立同盟)でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たした。

 
 
 

第二次世界大戦

 
 1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、1940年6月22日フランスが降伏すると、同年9月には降伏を受け入れたヴィシー・フランス側の承認の下に、日本軍フランス領インドシナに進駐した(仏印進駐)。
 
 仏印進駐後のベトナムはヴィシー・フランスと日本による二重支配体制が敷かれた。日本は「大東亜共栄圏」を主張したが、ベトナム帝国として形式的な独立を果たした日は、東京大空襲の翌日に当たる1945年3月11日であった。このベトナム帝国の成立は、阮朝王政復古を果たした日でもあった。
 1944年秋から1945年春にかけて、ベトナム北部を中心に激しい飢饉が発生した(1945年ベトナム飢饉)。
 
 8月14日に日本が降伏を予告すると、1945年8月14日から15日にインドシナ共産党の全国大会がタンチャオ(トゥエンクアン省)で開かれた。そこで、全国的な総蜂起が決定され、全国蜂起委員会が設立された。委員会は軍令第1号全人民に決起を呼びかけた。次の16日に各界・各団体・各民族の代表が出席する国民大会が同地で開かれた。
 大会は全会一致で総決起に賛成し、ベトナム民族解放委員会を設立し、ホーチ・ミンを主席に選出した。同主席は全国民に書簡で総決起を呼びかけた。 その3日後にベトナム八月革命が勃発し、ベトナム帝国皇帝バオ・ダイ8月30日に退位を宣言した。そして、9月2日には、ホー・チ・ミンは臨時政府を代表してベトナム独立宣言を厳かに読み上げ、国民と世界に向けてベトナム民主共和国の誕生を宣言した。
 
 
 

転載元: アジア・太平洋貿易振興・環境保全・環境産業振興・歴史認識


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