「高句驪国は滅亡する以前に国名を「高麗国」に変更していた」
後漢の 班固撰 『漢 書』 【高句驪】略して【句驪】
班固(はんこ)32-92後漢代
晋 の 陳壽撰 『三国志』 【高句驪】略して【句驪】
陳壽(ちんじゅ)233-297西晋代
南宋の 范曄撰 『後漢書』 【高句驪】略して【句驪】
范曄(はんよう)398-445宋代(南朝)
魏 の 魚豢撰 『魏 略』 【高句驪】略して【句驪】
魚豢(ぎょけん)-
梁 の 沈約撰 『宋 書』 【高句驪】略して【句驪】
沈約(しんやく)441-513
唐の 姚思簾(廉)撰 『梁 書』【高句驪】略して【句驪】
姚思廉(ようしれん)557-637
唐の 李延壽撰 『南 史』 【高句驪】略して【句驪】
唐の 李延壽撰 『北 史』 【高句驪】略して【句驪】
李延壽(りえんじゅ)唐代
北斉の 魏収撰 『魏 書』 【高句驪】略して【句驪】
魏収(ぎしゅう)506-572
班固(はんこ)32-92後漢代
晋 の 陳壽撰 『三国志』 【高句驪】略して【句驪】
陳壽(ちんじゅ)233-297西晋代
南宋の 范曄撰 『後漢書』 【高句驪】略して【句驪】
范曄(はんよう)398-445宋代(南朝)
魏 の 魚豢撰 『魏 略』 【高句驪】略して【句驪】
魚豢(ぎょけん)-
梁 の 沈約撰 『宋 書』 【高句驪】略して【句驪】
沈約(しんやく)441-513
唐の 姚思簾(廉)撰 『梁 書』【高句驪】略して【句驪】
姚思廉(ようしれん)557-637
唐の 李延壽撰 『南 史』 【高句驪】略して【句驪】
唐の 李延壽撰 『北 史』 【高句驪】略して【句驪】
李延壽(りえんじゅ)唐代
北斉の 魏収撰 『魏 書』 【高句驪】略して【句驪】
魏収(ぎしゅう)506-572
【高句麗】とし、行文中は【高麗】
梁の 蕭子顕撰 『南斉書』
蕭子顕(しょうしけん)489-537
唐の 房玄齢・李延寿 『晋 書』
房玄齢(ぼうげんれい)578-648
唐の 姚思廉撰 『陳 書』
姚思廉(ようしれん)557-637
唐の 李百薬撰 『北斉書』
李百薬(りひゃくやく)565-648
唐の 令狐徳棻撰 『周 書』
令狐徳棻(れいことくふん)583-666
唐の 魏徴・長孫無忌 『随 書』
魏徴(ぎちょう)580-643
長孫無忌(ちょうそんむき)-659
五代後晋の 劉昫・張昭遠・王伸編纂 『旧唐書』
劉昫(りゅうく)887-946
張昭遠(ちょうしょうえん)
王伸(おうしん)
北宋の 欧陽脩撰 『新唐書』
欧陽脩/欧阳脩/欧陽 修(おうようしゅう)1007-1072
宋祁(そうき)998-1061
梁時代の 『宋 書』 【高句驪】略して【句驪】
々 の 『南斉書』 【高句麗】とし、行文中は【高麗】
梁の 蕭子顕撰 『南斉書』
蕭子顕(しょうしけん)489-537
唐の 房玄齢・李延寿 『晋 書』
房玄齢(ぼうげんれい)578-648
唐の 姚思廉撰 『陳 書』
姚思廉(ようしれん)557-637
唐の 李百薬撰 『北斉書』
李百薬(りひゃくやく)565-648
唐の 令狐徳棻撰 『周 書』
令狐徳棻(れいことくふん)583-666
唐の 魏徴・長孫無忌 『随 書』
魏徴(ぎちょう)580-643
長孫無忌(ちょうそんむき)-659
五代後晋の 劉昫・張昭遠・王伸編纂 『旧唐書』
劉昫(りゅうく)887-946
張昭遠(ちょうしょうえん)
王伸(おうしん)
北宋の 欧陽脩撰 『新唐書』
欧陽脩/欧阳脩/欧陽 修(おうようしゅう)1007-1072
宋祁(そうき)998-1061
梁時代の 『宋 書』 【高句驪】略して【句驪】
々 の 『南斉書』 【高句麗】とし、行文中は【高麗】
梁の武帝が普通元年(520)二月癸丑に安臧王を封じて「寧東将軍高麗王」とした時。始めて「句」の字が取り去り、「驪」を改め「麗」とした。
以後、中原王朝の各高句麗王の冊封時には、「高麗王」とし、「高句麗王(高句驪王)」とすることはなかった。
高句麗王 中原王朝 冊封王号 出典
長寿王 北魏世祖・宋孝武皇帝・北魏孝文帝 高句驪王 『魏書』『列伝』『高句驪』
文咨明王 北魏孝文帝 高句驪王 『魏書』『列伝』『高句驪』
安臧王 北魏孝文帝・梁武帝 高句驪王・高麗王 『梁書』『梁武帝記下』
安原王 梁武帝 高麗王 『梁書』『東夷伝・高麗』
陽原王 北斉文宣帝 高麗王 『北斉書』『文宣帝記』
平原王 北斉廃帝 高麗王 『北斉書』『廃帝記』
嬰陽王 随文帝 高麗王 『随書』『東夷伝・高麗』
栄留王 唐高祖 高麗王 『新唐書』『東夷伝・高麗』
宝臧王 唐太宗 高麗王 『新唐書』『東夷伝・高麗』
以後、中原王朝の各高句麗王の冊封時には、「高麗王」とし、「高句麗王(高句驪王)」とすることはなかった。
後の王氏高麗(938-1396)とは全く異なるが、高句麗全体の歴史のなかで、始祖朱蒙から 安臧王 の高安二年(紀元前37-紀元520)を 「高句驪国」時代とし、安臧王から 宝臧王(520-668)までを 「高麗国」としたのである。
韓国時代劇ドラマでこの時代のみのを観ているけど、【淵蓋蘇文 ヨンゲソムン】【大祚榮-テジョヨン】も間違って国名表記しているのかな。
安臧王時代に何か大きく変化した事柄が有ったんですね。知りたいです。
高句麗が高麗と名を改めた中原王朝の高句麗王の封号-1
高句麗が高麗と名を改めた中原王朝 -2
高句麗が高麗と名を改めた中原王朝 -3
渤海 上京宮城永興殿・富居石城
《二十四史伝》
『史記』 『漢書』 『後漢書』 『三国志』 『晋書』 『宋書』 『南斉書』 『梁書』 『陳書』 『魏書』 『北斉書』 『周書』 『隋書』 『南史』 『北史』 『旧唐書』 『新唐書』 『旧五代史』 『新五代史』 『宋史』 『遼史』 『金史』 『元史』 『明史』
《二十六史》
『新元史』 『清史稿』
高句麗が高麗と名を改めた中原王朝 -2
高句麗が高麗と名を改めた中原王朝 -3
渤海 上京宮城永興殿・富居石城
《二十四史伝》
『史記』 『漢書』 『後漢書』 『三国志』 『晋書』 『宋書』 『南斉書』 『梁書』 『陳書』 『魏書』 『北斉書』 『周書』 『隋書』 『南史』 『北史』 『旧唐書』 『新唐書』 『旧五代史』 『新五代史』 『宋史』 『遼史』 『金史』 『元史』 『明史』
《二十六史》
『新元史』 『清史稿』