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日清戦争後、靖国神社に行幸される明治天皇
学校で教えない歴史(日清戦争と明治天皇)
シナの軍事力が大きく日本は小さい。かつて日本国民は屈辱に堪えていました。
明治19年、長崎に清国の定遠(ていえん)はじめ大きな軍艦4隻が長崎に入港してきました。そして500人のシナ水兵が勝手に上陸して掠奪や婦女暴行を起こしました。しかし、当時、強大な軍事力で日本を威圧してくる清国に対して日本は手も足も出ない有様で、この長崎事件では多くの日本国民は悔しい思いをしました。
この事件から日本は近海の沿岸防備と清国に対抗できる強力な海軍を持つことが国家の課題となりました。しかし海軍予算は軍艦建造費にしか回せず、沿岸防備の予算はありませんでした。
この時、明治天皇は沿岸防備のために皇室費を節約して30万円を拠出しました。陛下のこの話が伝わると、地方長官は国民に海防費の献金を呼び掛けました。すると危機意識を持っていた国民から200万円もの大金が集まりました。最近ではシナの尖閣での暴挙に対して石原都知事が尖閣購入の寄付を国民に募って15億円が集まったことがありました。
これにより、沿岸に大砲を備え付けることが出来ました。
一方、大小艦艇は25隻しか建造できず、清国には到底対抗できない状態でした。これに対して明治天皇は「皇室費から6年、毎年30万円ずつ、総額180万円を下付するから、役人も給与の10分の1を出すように」と仰せられました。これにより貴族院議員も自発的に年棒の4分の1を製艦費に上納しました。
そして、ついに日清戦争となりました。
明治天皇は戦争がはじまると広島に大本営を移され、前線から入る情報を聞かれて戦地で戦う将兵を偲んでおられました(上画像)。
しかし宮内省はこれでは陛下が窮屈であると思い、休息のために安楽椅子を御居間に運ぼうと伺うと明治天皇は「戦地に安楽椅子が備え付けてあるか。将兵は野に山に草をしとね、石を枕に困苦をなめている。将卒の身の上を思えば左様なことは出来ぬ。出征兵士が生命を犠牲にして困苦しているのにくらぶれば、ここの不自由など何でもない」と仰せられました。
12月になってストーブを取り付けようとすると「朝鮮や満州の地はこの地と較べて寒気はどうか。あちらにも暖炉があるか」と仰せになり、さらには戦死者の名簿が戦地から届くと、たとえ夜中でも一人一人の氏名をご覧になられ、なかなかお休みになられませんでした。
東日本大震災で天皇陛下は御所内の計画停電に励行されました。あまりの寒さに側近が両陛下のご体調を心配しても「被災地で苦しんでいる人々と困難を分かち合いたい。寒さは厚着をすればしのぐことが出来る」と仰せられました。国民とともに苦楽を共にするお姿は歴代天皇から受け継がれているのです。
伊藤博文が明治天皇の昼食時に緊急の案件を奏上した時、陛下が召しあがっているものには汁物も付け合わせもなく、米を梅干しで召し上がられていました。将兵が陛下の食事を見る機会がないが、誰が見ていなくても兵のことを考えている陛下の御姿がありました。
明治天皇のご滞在が相当に長くなると、昭憲皇后がご心配のあまり広島へ出向かれました。しかし明治天皇は「兵士たちは妻子と別れて出征して第一線で戦っている、自分も皇后と会うわけにはいかない」と仰せられて会われませんでした。
日本が強い理由がここにあるのかもしれません。
陸軍は「成歓の戦い」や「平壌の戦い」で一方的な勝利を収めました。
成歓の戦いではラッパ手・木口小平(きぐち こへい)が口にラッパを加えたまま戦死した話を修身(道徳教科書)に掲載しました。
海軍も「黄海海戦」で旗艦「松島」など4隻が大破しましたが沈没した艦はなく、清国の北洋艦隊は5隻沈没、6隻大破、2隻が暗礁に乗り上げ動けなくなり、ついに日本が勝利しました。黄海海戦では唱歌『勇敢なる水兵』として後々まで語り継がれることになりました。
この二つの話は戦前には知らない日本人はいませんでしたが、戦後はこういう話は教えないために知る日本人はほとんどいなくなりました。
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