古事記・日本書紀からたどる和歌山の旅
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伊波礼毘古命が異界の入口で、「をえ」、つまり意識不明の状態に陥り、熊野の高倉下から剣を献上されてたちまち目を覚まし、「長眠(ながい)しつる」といったのは、死に近づきつつある状態から蘇生したということです。ここに熊野信仰の、黄泉の国から帰る「甦(よみがえ)り」の原型があります。「擬死再生」でもあります。難行苦行して熊野へ行くと、今までよりもっと強い力を得て甦るということです。
熊野権現降臨縁起(えんぎ)【平安時代末の「熊野権現御垂迹縁起(くまのごんげんごすいじゃくえんぎ)」や「扶桑略記(ふそうりゃっき)」】全体の構成が、九州から東に渡ってきた「寄り来る神」が新宮<和歌山県新宮市>あたりを転々としたのちに、本宮<和歌山県田辺市本宮町>に着き、土地の猟師に発見されるという展開をとっていることは、神武東征神話に見られるとおりです。
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神武東遷の道を行く
「古事記」の神武東征神話によると、初め日向(ひむか)の国<宮崎県>の高千穂宮(たかちほのみや)にいた神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)(神武天皇)は、兄の五瀬命(イツセノミコト)と相談して、「どの地を都とすれば安らかに天下を治められようか、塩土老翁(シオツチノオジ)のいうには、東の方に青山に囲まれた美しい国があり、そこには饒速日(ニギハヤヒ)【櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤビノミコト)】<下記注1>であろうか、天磐船(あまのいわふね)に乗って飛び降ってきたものがあるという。
やはり東方を目指そう」と日向を出発します。途中、宇佐(うさ)<大分県>、筑紫(つくし)<福岡県>、安芸(あき)<広島県>、吉備(きび)<岡山県>を経て瀬戸内海を東に進んで浪早(なみはや)の渡り<大阪府>に至り、河内国<大阪府>で登美能那賀須泥毘古(トミノナカスネビコ)の抵抗に遭い、五瀬命が彼の矢を受けて、出血甚だしく、紀伊国<和歌山県>へと迂回することになりました。
そのとき、男之水門(おのみなと)<現・和歌山市小野町の水門吹上(みなとふきあげ)神社・大阪府の泉南市という説もある>に上陸し、ここで五瀬命が雄たけびをして崩御(ほうぎょ)され、竈山(かまやま)の地<現・和歌山市和田の竈山神社>に葬り申し上げました。
「日本書紀」は、崩御を「崩(さ)りましき」、また「陵(みはか)はすなはち紀伊国の竈山に在り」と記しています。これは天皇にしか使われない表現です。墓が「陵」という文字をあてて書かれているのも、やはり天皇に対して使われる文字だといわれます。「延喜式」の諸陵式の部にも、五瀬命の竈山の墓が記載され、さらに「日本書紀」の神代の終わりに五瀬命は「彦五瀬命」とあります。「彦」とは立派な男子という意味であり、おそらく、元来は「日子(ひこ)」であっただろうということです。
彼は戦いの最中に「吾(われ)は日の御子(みこ)として日に向かひて戦ふこと良(ふさ)はずかれ賤(いや)しき奴(やっこ)が痛手(いたで)を負(お)ひつ今よりは行き廻(めぐ)りて日を背(そびら)に負ひて撃たむ」【私は日神(ひのかみ)の御子なのに、太陽に向かって戦ったために痛手を受けてしまった。これからは迂回して、太陽を背中にして戦おう】といいます。
こうして五瀬命を失った皇軍は名草邑(なぐさのむら)<現・和歌山市の名草山周辺>に到着します。そして、この地で「名草戸畔(ナグサトベ)」という女首長を討伐しました。名草戸畔とは、和歌山市冬野の名草神社などに祀られている「名草姫命(ナグサヒメノミコト)」であるといわれ、このことからこの地が名草邑であるとされています(「紀伊続風土記」)。
日向を出発し、各地を平定してきた神倭伊波礼毘古命(神武天皇)の一行が、和歌山へと到達。しかし、一行には厳しい苦難が待っていたのです。 ゆかりの地を巡り、古代に想いをめぐらせてみませんか。
記紀の東征の物語は、この後さらに軍を南に進め熊野<紀伊半島熊野地方>へと向かいます。
そこから狭野(さの)を越えて熊野の神邑(みわのむら)に着き、天磐盾(あまのいわたて)に登って、そこから軍を率いて次第に進みます。
「狭野」は、現・和歌山県新宮市佐野、熊野古道佐野王子跡あたりです。「熊野の神邑」は新宮市に三輪崎(みわさき)という地名があり、「万葉集」に神(みわ)の崎と詠われています。
苦しくも 降り来る雨か 神の崎 狭野の渡りに 家もあらなくに(万・巻3-265)
「天磐盾」は、新宮市新宮の熊野速玉大社の摂社・神倉神社の境内の神倉山であると伝えられています。
一行が船で進もうとした時、海上で突然暴風雨に遭遇して、船団は漂流しました。その時、稲飯命(イナイノミコト)【稲氷命(イナヒノミコト)】<神武天皇の兄>は嘆かれて
「ああ何としたことだ。わが祖先は天神(あまつかみ)、母は海神(わたつみ)であるというのに、どうして私を陸で苦しめ、また海で苦しめるのであろうか。」
と仰せられ、言い終わるやそのまま剣を抜き、海に身を投じて鋤持神(さいもちのかみ)となられました。
三毛入野命(ミケイリノノミコト)【御毛沼命(ミケヌノミコト)】<神武天皇の兄>もまた恨んで「わが母と姨(おば)とは二柱(ふたはしら)とも海神である。それなのにどうして波を立てて私を溺(おぼ)れさせるのか」と仰せられて、波頭(なみがしら)を踏んで常世郷(とこよのくに)に行ってしまわれました。稲飯命と三毛入野命は、現・新宮市王子の王子神社に祀られています。
こうして神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)[神武天皇]はただ一人、皇子の手研耳命(タギシミミノミコト)と軍を率いて進み、熊野の荒坂津(あらさかつ)[またの名を丹敷浦(にしきのうら)という]に到着されたのです。そこで丹敷戸畔(ニシキトベ)という者を討伐されました。
那智勝浦町のJR那智駅近くの熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)【浜の宮大神社(おおみわやしろ)、国指定史跡・浜の宮王子社跡】境内に「神武天皇頓宮(とんぐう)跡」と刻まれた大きな石碑があり、本殿の右隣に丹敷戸畔神社(にしきとべしんやしろ)と石碑があります。
神倭伊波礼毘古命は、このあと、さらに進むと神がいて、その霊気によって人々は皆意識を失ってしまいました<以上「日本書紀」の記述、「古事記」では「大きな熊がちらりと見え隠れして、そのまま姿を消した」とある>。このため伊波礼毘古命も軍勢も起き上がることができませんでした。
熊野の高倉下(タカクラジ)が剣を持ってくると、伊波礼毘古命は蘇生します。そして彼が剣を受け取ると、軍勢も皆目を覚まし、荒ぶる神たちは、みな自然に切り倒されました。
そこで、伊波礼毘古命は高倉下にどうしてこの剣を手に入れたのかと尋ねますと高倉下は答えました。夢で、天照大神(アマテラスオオミカミ)[天照大御神]と高木神(タカギノカミ)【高御産巣日神(タカミムスビノカミ)】が、建御雷神(タケミカズチノカミ)を呼んで
「葦原中国(あしはらのなかつくに)では、われらの御子たちが苦戦しているらしい、そこでお前が降(くだ)るのがよい」
といいますと、建御雷神は「私が参りませんでも、私が国譲りの交渉に出雲に携えた剣「佐士布都神(さじふつのかみ)【布都御魂(ふつのみたま)が宿る剣】」<奈良県天理市の石上神宮(いそのかみのかみのみや)に鎮座>を下せば、国は自然に平(たい)らぐことと存じます。
この剣は高倉下の倉の頂(いただき)に穴を開けて下そう。」と答えました。そこで高倉下は夢のお告げのとおりに倉を見ると、本当に剣がありました。だからその剣を天神の御子に奉ったのです、と。
高倉下が剣を得た倉の頂は、神倉山頂のゴトビキ岩<神倉神社のご神体>のあたりをさすとされています。
こうして伊波礼毘古命は、あらためて天皇になる資格を獲得したともいえます。
さて、伊波礼毘古命の軍勢は高木神が遣(つか)わした「八咫烏」の先導により、熊野川をさかのぼり、山中を迷うことなく無事吉野<奈良県南部>に至り、そこから宇陀(うだ)<奈良県中東部>へと進みます。そして、さまざまな戦いを経てついに太陽を背にして、宿敵である登美能那賀須泥毘古(トミノナカスネビコ)【長髄彦(ナガスネビコ)】と相まみえました。
「日本書紀」によりますと、このとき金色の光を放つ鵄(とび)が飛んできて弓弭(ゆはず)<弓の両端、弦の輪をかける部分>に止まり、その光に目がくらんだ長髄彦軍は、戦わずして敗れ去ったとあります。この時、長髄彦の妹婿である櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)も帰順しました。
そこで、畝傍山(うねびやま)東南の白檮原宮(かしはらのみや)【橿原】<奈良県橿原市>で初代・神武天皇として即位されました。そして皇后として富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススギヒメノミコト)【「日本書紀」では媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)】を迎え、三柱(みはしら)の御子をもうけました。明治23年、神武天皇を主祭神として橿原神宮が創建されています。
高倉下
物部氏や穂積氏(ほずみし)[鈴木氏]の祖神(おやがみ)・櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)の子となっています(「旧事本紀(くじほんぎ)」)。
櫛玉饒速日命は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)とは別に天磐船(あまのいわふね)に乗って天降(あまくだ)り、登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)(長髄彦)の妹、登美夜毘売(トミヤビメ)【三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)】を娶(めと)り、長髄彦から君と仰がれ仕えられました。因(ちな)みに佐士布都神・布都御魂の鎮座する石上神宮<奈良県天理市布留町>は物部氏の信仰が厚く氏神となっています。
櫛玉饒速日命は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)とは別に天磐船(あまのいわふね)に乗って天降(あまくだ)り、登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)(長髄彦)の妹、登美夜毘売(トミヤビメ)【三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)】を娶(めと)り、長髄彦から君と仰がれ仕えられました。因(ちな)みに佐士布都神・布都御魂の鎮座する石上神宮<奈良県天理市布留町>は物部氏の信仰が厚く氏神となっています。
甦りの地・熊野
「日本書紀」の一書(別伝)に、高天原から降臨された伊弉諾(イザナギ)【伊耶那岐(イザナギ)】・伊弉冉(イザナミ)【伊耶那美】の二神は、日本国土を始め、数多くの神々を産み、その最後に火の神、迦具土神(カグツチノカミ)【火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)】を産んだ時、伊弉冉はこの神に焼かれて亡くなられました。それで、紀伊国の熊野の有馬村【花の窟(いわや)】<現・三重県熊野市有馬町の花窟(はなのいわや)神社>に葬り申し上げた、とあります。このことから、「熊野」は隠国(こもりく)、黄泉(よみ)の国とされ、死者が行く国とされました。
伊波礼毘古命が異界の入口で、「をえ」、つまり意識不明の状態に陥り、熊野の高倉下から剣を献上されてたちまち目を覚まし、「長眠(ながい)しつる」といったのは、死に近づきつつある状態から蘇生したということです。ここに熊野信仰の、黄泉の国から帰る「甦(よみがえ)り」の原型があります。「擬死再生」でもあります。難行苦行して熊野へ行くと、今までよりもっと強い力を得て甦るということです。
熊野権現降臨縁起(えんぎ)【平安時代末の「熊野権現御垂迹縁起(くまのごんげんごすいじゃくえんぎ)」や「扶桑略記(ふそうりゃっき)」】全体の構成が、九州から東に渡ってきた「寄り来る神」が新宮<和歌山県新宮市>あたりを転々としたのちに、本宮<和歌山県田辺市本宮町>に着き、土地の猟師に発見されるという展開をとっていることは、神武東征神話に見られるとおりです。
そして、平安中期以降の歴代の上皇、法皇や、貴族たちの熊野詣(もう)でを始め、武士、一般庶民に至るまで熊野権現信仰の隆盛を招いたのも、「甦りの地・熊野」のなせる業(わざ)といえるでしょう。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の原点でもあります。
海路を経て、熊野へと到着した神倭伊波礼毘古命(神武天皇)の一行を、さらなる試練が待ち受けていました。聖地・熊野でも『記紀』の世界が、あなたのお越しをお待ちしています。
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