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黒船来航とは嘉永6年(1853年)に、マシュー・ペリー代将が率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。

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異国船の来航(神戸市立博物館より)
 
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 異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)とは、外国がしばしば来訪し上陸や暴行事件が起きたため江戸幕府1825年文政8年)に発した外国船追放令である。
 無二念打払令(むにねんうちはらいれい)、外国船打払令(がいこくせんうちはらいれい)、文政の打払令(ぶんせいのうちはらいれい)とも言う。1808年10月文化5年8月)に起きたフェートン号事件、そしてその後も相次いだイギリス船の出現を受けて発令された。
 
 
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フェートン号
 
 フェートン号事件は、文化5年8月1808年10月)、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が極東の日本にまで及んだものである。
 
 1641年以降、欧州諸国のなかでネーデルラント連邦共和国(のちのオランダ)のみが日本との通商を許され、長崎出島オランダ東インド会社商館が設置されていた。イギリスも江戸時代初期には平戸に商館を設置して対日貿易を行っていたが、オランダとの営業競争に敗れ経営不振のため1623年に長崎平戸の商館を閉館し、その後再開を試みるも江戸幕府に拒絶され続けていた。(平戸のイギリス商館については、イギリス(平戸)商館参照のこと
 
 18世紀末、フランス革命戦争が勃発すると、1793年にオランダはフランスに占領され、オランダ統領ウィレム5世はイギリスに亡命した。
 オランダでは地元の革命派によるバタヴィア共和国が成立し、オランダ東インド会社は1798年に解散した。
 バタヴィア共和国はフランスの影響下にあるとはいえ一応オランダ人の政権であるが、ナポレオン皇帝は1806年に弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、フランス人によるオランダ王国(ホラント王国)が成立した。このため、世界各地にあったオランダの植民地はすべて革命フランスの影響下に置かれることとなった。
 
 イギリスは、亡命して来たウィレム5世の依頼によりオランダの海外植民地の接収を始めていたが、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィアジャカルタ)は依然として旧オランダ(つまりフランス)支配下の植民地であった。
 しかし、アジアの制海権は既にイギリスが握っていたため、バタヴィアでは旧オランダ(つまりフランス)支配下の貿易商は中立国のアメリカ籍船を雇用して長崎と貿易を続けていた。
 
 
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事件の経過

 文化5年8月15日1808年)、オランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲートフェートンフリートウッド・ペリュー艦長)は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。これをオランダ船と誤認した出島オランダ商館では商館員ホウゼンルマンとシキンムルの2名を小舟で派遣し、慣例に従って長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって商館員2名が拉致され、船に連行された。
 それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装ボートで長崎港内の捜索を行った。長崎奉行所ではフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求したが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけだった。
 
 オランダ商館長(カピタンヘンドリック・ズーフは長崎奉行所内に避難し、商館員の生還を願い戦闘回避を勧めた。長崎奉行の松平康英は、商館員の生還を約束する一方で、湾内警備を担当する鍋島藩福岡藩(藩主:黒田斉清)の両藩にイギリス側の襲撃に備える事、またフェートン号を抑留、又は焼き討ちする準備を命じた。
 ところが長崎警衛当番の鍋島藩が太平に慣れて経費削減のため守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の10分の1ほどのわずか100名程度しか在番していないことが判明する。松平康英は急遽、薩摩藩熊本藩久留米藩大村藩など九州諸藩に応援の出兵を求めた。
 
 翌16日、ペリュー艦長は人質の1人を釈放して薪水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求し、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。
  長崎奉行所では食料や飲料水を準備して舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛とともにフェートン号に送った。これを受けてペリュー艦長はシキンムル商館員も釈放し、出航の準備を始めた。
 

結果

 結果だけを見れば日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決した。
 しかし、手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。
 さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主鍋島斉直に100日の閉門を命じた。フェートン号事件ののち、ズーフや長崎奉行曲淵景露らが臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化された。その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は1825年異国船打払令を発令することになる。
 
 この屈辱を味わった鍋島藩は次代鍋島直正の下で近代化に尽力し、明治維新の際に大きな力を持つに至った。
 一方、イギリスは1811年になってインドからジャワ島に遠征軍を派遣し、バタヴィアを攻略、東インド全島を支配下に置いた。イギリス占領下のバタヴィアから長崎のオランダ商館には何の連絡もなく、商館長ズーフらはナポレオン帝国没落後まで長崎出島に放置された。ズーフたちは本国の支援もないまま、7年もの年月を日本で過ごしていくこととなる。
 
 
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 日本の沿岸に接近する外国船は、見つけ次第に砲撃し、追い返した。また上陸外国人については逮捕を命じている。
 しかし、日本人漂流漁民音吉たちを送り届けてきたアメリカ合衆国商船モリソン号をイギリスの軍艦と誤認して砲撃したモリソン号事件は日本人にも批判された。
 また、アヘン戦争での大国の惨敗の情報により、幕府は西洋の軍事力の強大さを認識し、1842年天保13年)には異国船打払令を廃止し、遭難した船に限り補給を認めるという薪水給与令を出して、文化の薪水給与令の水準に戻すことになった。
 
 
 黒船来航(くろふねらいこう)とは嘉永6年(1853年)に、マシュー・ペリー代将が率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。
 当初久里浜に来航したが、当時久里浜の港は砂浜で黒船が停泊できなかったことから、幕府江戸湾浦賀神奈川県横須賀市浦賀)に誘導した。
 アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本では主に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。
 
黒船来航
  

背景

マシュー・ペリー

米国のアジア市場への進出

 産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジア中国大陸への市場拡大に急いでいたが、後にそれは熾烈な植民地獲得競争となる。
 市場拡大競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は出遅れていた。
 アメリカは1833年シャムマスカットとの条約を締結することにようやく成功した。
 1835年には清・日本との条約締結のために特使を派遣することとし、このときに東インド艦隊が設立されている。
 この試みは成功しなかったが、アヘン戦争後の1842年に清との間に望厦条約を締結し、中国市場へ進出することとなる。この条約の批准のために東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが清に派遣されるが、ビドルは日本との条約交渉の任務をおびていた。このため、1846年に浦賀に来航するが、条約を結ぶことはできなかった。 
 

捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保

 産業革命によって工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになり、その潤滑油ランプの灯火として、主にマッコウクジラ鯨油が使用されていた。この需要を満たすため、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で、「捕鯨」を盛んに行なっていた。
 当時の捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行ってたため、大量の薪・水が必要であり、長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていたが、アメリカも例外ではなかった。
 また、アメリカ海軍の任務の一つとして漂流民の保護があり、1849年にはジェームス・グリンが難破した米国捕鯨船乗組員を保護するために長崎に来航している。その費用の観点からも、日本と条約を締結することは有利であった。
 

米墨戦争の影響

 アメリカはすでに1846年にイギリスとの交渉でオレゴンの南半分をその領土としていたが、1846年-1848年米墨戦争でカリフォルニアを獲得した。これによりアメリカは太平洋国家となり、将来的な太平洋航路の開拓が必然となった。その理論的航路として、西海岸から北上し、アリューシャン列島千島列島沿いに南下、津軽海峡経由で日本海に出て上海に到着する、大圏コースがあった。
 このため、津軽海峡に面した箱館に補給拠点をおくことが望まれた。さらに、米墨戦争での勝利により、それまで主力艦隊とされていたメキシコ湾艦隊の必要性が低下し、海軍は予算獲得のためにも東インド艦隊を増強する必要が生じた。
 

ペリー以前

アメリカ関係のみ記述してもこれだけの前史がある。
 1791年3月、ケンドリックは日本では(違法と知りつつ)さらに高く皮が売れるのではないかと考え、マカオにいたダグラス(船はグレイス(Grace)に変わっていた)と共に日本に向けてマカオを出港した。5月6日紀伊大島に到着した。
 
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 トラブルを避けるため、ケンドリックは嵐を避けて避難してきたと説明した。おそらく、彼らが日本に上陸した最初のアメリカ人である。
 翌日、本当に台風に遭遇し北西に流されてしまった。結局日本との交易は成功せず、5月17日に日本を離れた。交易が失敗した原因は鎖国のためと言うよりも、むしろ日本人が皮に興味を示さなかったためであろう。二人は小笠原諸島で別れ、ケンドリックはヌートカ湾に戻った。
 なお、この来航を記念して和歌山県東牟婁郡串本町紀伊大島、樫野埼に日米修交記念館が建設されている。またJR串本駅前にはレディ・ワシントン号のブロンズ像が置かれている。
 
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 1853年ペリー提督の浦賀来航(黒船来航)があまりに有名であるため、それ以前にも日米の交流があったことは忘れられがちである。実際にはアメリカ人として日本に最初に渡航して貿易を申し込んだのは、それより62年も前の1791年ジョン・ケンドリックの紀伊大島への来航である。
 ボストンの商人等がスポンサーとなり、アメリカ西海岸原住民から毛皮を入手し、太平洋を横断して広東で売りさばく計画が立てられ、1787年にケンドリックおよびロバート・グレイを船長とする2隻が派遣された。
 2隻はボストンから大西洋を南下し、南米ホーン岬沖を通過して太平洋に入り、北上して西海岸に到着したが、これはアメリカ人による最初の西海岸探検でもあった。毛皮の入手後、グレイは予定通り広東で毛皮を売り西回りでボストンに戻ったが、遅れてマカオに到着したケンドリックの取引は上手くいかなかった。このため西海岸に戻る途中で日本に寄港し、毛皮の販売を試みたものであった。交易交渉は上手くいかず、数日後に日本を離れている。
 
 ケンドリックの一行は、当初の計画から交易という明確な目的をもって紀伊大島に寄航しており、住民に警戒心を与えないために「漂着」と装ったことや毛皮の貿易を申し込んだことが書簡や公文書(『マサチューセッツ海事史』ほか)などから明らかになっている。
 一方、日本ではこの来航は偶然の「漂着」に過ぎないとされている。ケンドリックは地元住民と交易交渉を行ったのみで、紀州藩や幕府の役人などと交渉すること無くそのまま日本を離れているため、ペリー来航などと比べると重要な出来事とは認識されていない。このため教科書にも掲載されておらず、日本においてはこの日米の最初の出会いはあまり知られていない。
 
 なお、ワシントン州アバディーン市では1989年にケンドリックの乗ったレディ・ワシントン号の再建造が行われたほか、マサチューセッツ州ウエアハムにあるケンドリックの旧宅がケンドリック記念館として保存・公開されている。
 
 
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