異国船の来航(神戸市立博物館より)
無二念打払令(むにねんうちはらいれい)、外国船打払令(がいこくせんうちはらいれい)、文政の打払令(ぶんせいのうちはらいれい)とも言う。1808年10月(文化5年8月)に起きたフェートン号事件、そしてその後も相次いだイギリス船の出現を受けて発令された。
1641年以降、欧州諸国のなかでネーデルラント連邦共和国(のちのオランダ)のみが日本との通商を許され、長崎出島にオランダ東インド会社の商館が設置されていた。イギリスも江戸時代初期には平戸に商館を設置して対日貿易を行っていたが、オランダとの営業競争に敗れ経営不振のため1623年に長崎平戸の商館を閉館し、その後再開を試みるも江戸幕府に拒絶され続けていた。(平戸のイギリス商館については、イギリス(平戸)商館参照のこと)
バタヴィア共和国はフランスの影響下にあるとはいえ一応オランダ人の政権であるが、ナポレオン皇帝は1806年に弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、フランス人によるオランダ王国(ホラント王国)が成立した。このため、世界各地にあったオランダの植民地はすべて革命フランスの影響下に置かれることとなった。
イギリスは、亡命して来たウィレム5世の依頼によりオランダの海外植民地の接収を始めていたが、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィア(ジャカルタ)は依然として旧オランダ(つまりフランス)支配下の植民地であった。
しかし、アジアの制海権は既にイギリスが握っていたため、バタヴィアでは旧オランダ(つまりフランス)支配下の貿易商は中立国のアメリカ籍船を雇用して長崎と貿易を続けていた。
事件の経過
文化5年8月15日(1808年)、オランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲート艦フェートン(フリートウッド・ペリュー艦長)は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館では商館員ホウゼンルマンとシキンムルの2名を小舟で派遣し、慣例に従って長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって商館員2名が拉致され、船に連行された。
それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装ボートで長崎港内の捜索を行った。長崎奉行所ではフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求したが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけだった。
オランダ商館長(カピタン)ヘンドリック・ズーフは長崎奉行所内に避難し、商館員の生還を願い戦闘回避を勧めた。長崎奉行の松平康英は、商館員の生還を約束する一方で、湾内警備を担当する鍋島藩・福岡藩(藩主:黒田斉清)の両藩にイギリス側の襲撃に備える事、またフェートン号を抑留、又は焼き討ちする準備を命じた。
ところが長崎警衛当番の鍋島藩が太平に慣れて経費削減のため守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の10分の1ほどのわずか100名程度しか在番していないことが判明する。松平康英は急遽、薩摩藩、熊本藩、久留米藩、大村藩など九州諸藩に応援の出兵を求めた。
翌16日、ペリュー艦長は人質の1人を釈放して薪水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求し、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。
長崎奉行所では食料や飲料水を準備して舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛とともにフェートン号に送った。これを受けてペリュー艦長はシキンムル商館員も釈放し、出航の準備を始めた。
結果
結果だけを見れば日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決した。
しかし、手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。
さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主鍋島斉直に100日の閉門を命じた。フェートン号事件ののち、ズーフや長崎奉行曲淵景露らが臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化された。その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は1825年に異国船打払令を発令することになる。
この屈辱を味わった鍋島藩は次代鍋島直正の下で近代化に尽力し、明治維新の際に大きな力を持つに至った。
日本の沿岸に接近する外国船は、見つけ次第に砲撃し、追い返した。また上陸外国人については逮捕を命じている。
捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保
産業革命によって工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになり、その潤滑油やランプの灯火として、主にマッコウクジラの鯨油が使用されていた。この需要を満たすため、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で、「捕鯨」を盛んに行なっていた。
当時の捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行ってたため、大量の薪・水が必要であり、長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていたが、アメリカも例外ではなかった。
また、アメリカ海軍の任務の一つとして漂流民の保護があり、1849年にはジェームス・グリンが難破した米国捕鯨船乗組員を保護するために長崎に来航している。その費用の観点からも、日本と条約を締結することは有利であった。
ペリー以前
アメリカ関係のみ記述してもこれだけの前史がある。
- 1791年(寛政3年) - 冒険商人ジョン・ケンドリックが2隻の船とともに紀伊大島に上陸。日本を訪れた最初の米国人。
1791年3月、ケンドリックは日本では(違法と知りつつ)さらに高く皮が売れるのではないかと考え、マカオにいたダグラス(船はグレイス(Grace)に変わっていた)と共に日本に向けてマカオを出港した。5月6日紀伊大島に到着した。
トラブルを避けるため、ケンドリックは嵐を避けて避難してきたと説明した。おそらく、彼らが日本に上陸した最初のアメリカ人である。
翌日、本当に台風に遭遇し北西に流されてしまった。結局日本との交易は成功せず、5月17日に日本を離れた。交易が失敗した原因は鎖国のためと言うよりも、むしろ日本人が皮に興味を示さなかったためであろう。二人は小笠原諸島で別れ、ケンドリックはヌートカ湾に戻った。
1853年のペリー提督の浦賀来航(黒船来航)があまりに有名であるため、それ以前にも日米の交流があったことは忘れられがちである。実際にはアメリカ人として日本に最初に渡航して貿易を申し込んだのは、それより62年も前の1791年、ジョン・ケンドリックの紀伊大島への来航である。
ボストンの商人等がスポンサーとなり、アメリカ西海岸で原住民から毛皮を入手し、太平洋を横断して広東で売りさばく計画が立てられ、1787年にケンドリックおよびロバート・グレイを船長とする2隻が派遣された。
2隻はボストンから大西洋を南下し、南米ホーン岬沖を通過して太平洋に入り、北上して西海岸に到着したが、これはアメリカ人による最初の西海岸探検でもあった。毛皮の入手後、グレイは予定通り広東で毛皮を売り西回りでボストンに戻ったが、遅れてマカオに到着したケンドリックの取引は上手くいかなかった。このため西海岸に戻る途中で日本に寄港し、毛皮の販売を試みたものであった。交易交渉は上手くいかず、数日後に日本を離れている。
ケンドリックの一行は、当初の計画から交易という明確な目的をもって紀伊大島に寄航しており、住民に警戒心を与えないために「漂着」と装ったことや毛皮の貿易を申し込んだことが書簡や公文書(『マサチューセッツ海事史』ほか)などから明らかになっている。
一方、日本ではこの来航は偶然の「漂着」に過ぎないとされている。ケンドリックは地元住民と交易交渉を行ったのみで、紀州藩や幕府の役人などと交渉すること無くそのまま日本を離れているため、ペリー来航などと比べると重要な出来事とは認識されていない。このため教科書にも掲載されておらず、日本においてはこの日米の最初の出会いはあまり知られていない。
- 1797年(寛政9年) - オランダがフランスに占領されてしまったため、数隻の米国船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行う。1809年(文化6年)までに13回の来航が記録されている。
- 1830年(天保元年) - 小笠原諸島の父島にナサニエル・セイヴァリーが上陸。
- 1835年(天保6年) - アンドリュー・ジャクソン大統領は、エドマンド・ロバーツ(Edmund Roberts)を特命使節とし、清、日本との交渉のためにアジアに派遣したが、ロバーツは中国で死亡した。ロバーツをアジア送り届けるため、東インド艦隊が編成された。
- 1837年(天保8年) - アメリカ商人チャールズ・キングが商船モリソン号で音吉など漂流民を日本に送り届けるため浦賀に来航。1808年の長崎でのイギリス軍艦の起こしたフェートン号事件以降の異国船打払令に基づき、日本側砲台がモリソン号を砲撃した(モリソン号事件)。
- 1845年(弘化2年) - 捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助し、マーケイター・クーパー船長は浦賀への入港を許可され浦賀奉行と対面した。
- 1846年(弘化3年)閏5月 - アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルがコロンバス号、ビンセンス号の2隻の軍艦を率いて浦賀に来航し通商を求めるも拒否される。米軍艦の初の日本寄港であった。
- 1846年(弘化3年) - アメリカ捕鯨船ローレンス号の乗員、択捉島に漂着。翌年長崎でオランダ船に引き渡される。
- 1848年(嘉永元年) - アメリカ捕鯨船ラゴダ号の乗員、西蝦夷地に漂着。ローレンス号の乗員と同じく長崎に護送されるが、脱走を試みるなどしたため、入牢させられる。これがアメリカには、「アメリカ人が虐待されている」と伝わる。
- 1848年(嘉永元年) - ラナルド・マクドナルド、日本人に英語を教えようと、自らの意志で密入国。
- 1849年(嘉永2年) - 東インド艦隊のジェームス・グリンを艦長とするアメリカ軍艦プレブル号が長崎に来航し、前年に漂着したラゴダ号の船員とマクドナルドを受け取り退去する。この時、グリンの示した「毅然たる態度」が、後のペリーの計画に影響を与える。