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The history of the eruption of Mount Fuji. 富士山の噴火史。

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歴史秘話ヒストリア 江戸 百万人が見た!富士山大噴火  

宝永大噴火


宝永大噴火
ほうえいだいふんか火山年月日噴火様式場所火山爆発指数
Mount Hoei from Jurigi.jpg
十里木高原から望む宝永山と宝永第一火口
富士山
1707年12月16日
プリニー式
日本本州島静岡県と、山梨県に跨る
北緯35度21分29秒東経138度43分52秒 / 北緯35.3580度 東経138.7310度 / 35.3580; 138.7310
5[1]
プロジェクト:地球科学プロジェクト:災害
南から見た富士山の宝永火口、火口の位置:1(第一火口)、2(第二火口)、3(第三火口)、4(宝永山)
浮世絵に見る宝永火口(歌川広重
宝永大噴火(ほうえいだいふんか)とは、江戸時代中期の1707年宝永4年)に起きた富士山噴火である。2017年現在、最も新しい富士山の噴火となっている。噴火は約2週間続き、総噴出量は、約7×108m3[2]と推定されている。噴火による直接の死者は記録されていないが[3][4]、噴出した溶岩石による火災などで甚大な被害をもたらした。

概要[ソースを編集]

宝永大噴火は、歴史時代の富士山三大噴火の一つであり、他の二つは平安時代に発生した「延暦大噴火(800年 - 802年)」と「貞観の大噴火(864年 - 866年)」である。宝永大噴火以後、現在に至るまで富士山は噴火していない。
特徴は噴煙の高さが上空20kmと推定される[5]火山爆発指数VEI5[1]プリニー式噴火と大量の火山灰である。実際に100 km離れた江戸にも火山灰が積もった。ただし溶岩の流下は見られていない。地下20km付近のマグマが滞留することなく上昇したため、脱水及び発泡と脱ガスが殆ど行われず、爆発的な噴火となった[6][7]。噴火がみられたのは富士山の東南斜面であり、合計3つの火口が形成された(宝永山)。これらは標高の高い順に第一、第二、そして第三宝永火口とよばれ、互いに重なり合うように並んでいる。ただし麓から見ると最も大きい第一火口のみが目立つ。なお、宝永山は登山道が整備されているため登山が可能である[8]

被害と復興[ソースを編集]

火山灰は関東一円に降り注ぎ、農作物に多大な影響をもたらした。
被災地の管轄は、小田原藩以外は幕領や旗本知行地が多く細分されていたが、幕府は全国各藩への石高に応じた課税により資金調達し被災各地の復興に努めた。(小田原藩では自力での復興は無理であると判断し、領地の半分を幕府に差しだし救済を求めた。)しかし、噴火から20年以上を経ても復興できない地域が多くあり、小田原藩の米の収量が元に戻るまで90年程を要した。
酒匂川流域では、堆積した火山灰(富士山周辺で推定40cm)により水位が上がり堤防が決壊し、水没する村が続出した[9]。(大岡越前守忠相に見出された田中休愚徳川吉宗の命を受けて享保11年(1726年)から復興に当たった[10]。)

富士山の噴火史

富士山の火山活動は3つの時代に分けられる。一番古い小御岳火山(こみたけ-)は今の富士山の場所で10万年以上前に活動していた。その次に古富士火山が8万年前頃から爆発的な噴火を繰り返して大きな山体を形成した。その後1万年前(5000年前とする説もある)から現在の新富士火山の活動に移行した。新富士火山の噴火では大量の火山灰火山弾などの降下噴出物、溶岩火砕流などの流出が特徴である。平安時代は特に火山活動が活発で、延暦19年 - 21年(800年 - 802年)に大量の火山灰を降らせたと日本後紀に記載された延暦の大噴火があり、貞観8年(864年)には山腹から大量の溶岩(青木が原溶岩)を流出し現在の青木が原樹海の元を形成した貞観大噴火など大きな噴火があった。その後は小規模な噴火や噴気活動など比較的穏やかな時期が続いていた(詳しくは「富士山の噴火史」を参照)。

時代背景

噴火が起こったのは徳川綱吉の治世(延宝8年 - 宝永6年・1680年 - 1709年)の末期で、江戸や上方の大都市では元禄文化と呼ばれる町人文化が発展していた。噴火の前年には、元禄15年(1702年)に起こった赤穂浪士の討ち入り事件が近松門左衛門の筆で人形浄瑠璃として初演された。富士山に大穴を開けたこの大噴火は、綱吉や重秀の悪政の証拠だとされ、これはいわれのない迷信であるが、当時はこのような天災地変は天地から生まれた財宝である混ぜ物をして悪貨を発行し幕府の私腹を肥やした結果だとされていた[11][12]


1707年
12月16日宝永4年)旧暦11月23日 宝永大噴火。火山爆発指数:VEI5
大量のスコリアと火山灰を噴出。この噴火は日本最大級の地震である宝永地震の49日後に始まり、江戸市中まで大量の火山灰を降下させる等特徴的な噴火であった。
1708年(宝永5年)
鳴動
1854年(嘉永7年・安政元年)
安政東海地震発生。直後、富士の山頂に異様な黒雲がかかり、8合目付近に多数の火が上がる様が眺められたという[14]
1923年(大正12年)
あらたな噴気
1987年(昭和62年)
山頂のみで有感地震
2012年(平成24年)
2月10日富士山3合目(山頂の北西約6km)の山腹で僅かな噴気を確認したが、4月と5月の現地調査では湯気、温度の異常、硫黄臭は認められず[15]

宝永大噴火以降の活動

宝永大噴火後、富士山では大規模な火山活動はなかったが、江戸時代晩期から、昭和中期にかけて、山頂火口南東縁の荒巻と呼ばれる場所を中心に噴気活動があった。この活動は1854年安政東海地震をきっかけに始まったと言われており、明治大正、昭和中期に掛けての期間、荒巻を中心とした一帯で明白な噴気活動があったことが、測候所の記録や登山客の証言として残されている。

この噴気活動は明治中期から大正にかけて、荒巻を中心に場所を変えつつ活発に活動していたとされる。活動は昭和に入って低下し始めたが、1957年の気象庁の調査においても50℃の温度を記録していた。その後1960年代には活動は終息し、現在山頂付近には噴気活動は認められていない。

しかしながら、噴気活動終了後も山頂火口や宝永火口付近で地熱が観測されたと記録されている。以上のように、富士山がつい近年まで噴気という火山活動の諸形態の一つを続けていたという事実は、富士山が現在も息づいている活火山である証拠である。

地震との関係

宝永大噴火宝永地震の49日後に発生している。そのほかに南海トラフ相模トラフを震源とする地震や近隣地域地震の前後25年以内に、富士山に何らかの活動が発生している事例が多く、地震と富士山活動とは関連性があるとされる[16]

また、噴火活動ではないが、1331年元弘地震(M7)や1792年1891年濃尾地震では地震の震動で山体崩壊や大規模な斜面の崩落が発生したと記録されている。

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