Quantcast
Channel: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1050

[転載]琵琶湖環境歴史ツアー~縄文海進と百済棄民~

$
0
0
琵琶湖環境歴史ツアー~縄文海進と百済棄民~
 
 
 縄文海進とは、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである。海面が今より2~3メートル高かったこと。
 
左が現在
6000年前に温暖ピークがある
 
 
百済寺(ひゃくさいじ)は、滋賀県東近江市にある天台宗の寺院。山号を釈迦山と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は聖徳太子とされる。金剛輪寺西明寺とともに「湖東三山」の1つとして知られる。
 百済寺所在地
Shiga Hyakusaiji Hondo.jpg
本堂(重要文化財)
滋賀県東近江市百済寺町323
 
 
歴史
 琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。寺伝によれば、推古天皇14年(606年)、聖徳太子の建立という。聖徳太子は当時来朝していた高麗(高句麗)の僧・恵慈(えじ)とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。その光の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉であった。太子はその杉を、根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音の像を作り、像を囲むように堂を建てた。これが百済寺の始まりであるといい、百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と号したという。
 百済寺の史料上の初見は11世紀の寛治3年(1089年)であり、聖徳太子創建との伝承がどこまで史実を反映したものかは不明であるが、百済寺という寺号から見て、この寺は渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高い。平安時代には、近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台宗の寺院となっている。
 
 
 
 後期、泗沘時代(538年 - 660年)[編集]

百済と新羅との対立

 聖王によって泗沘に都が移されると同時に、国号は南扶余としたが、その国号が国際的に定着することはなかった。この頃、かつての百済の都であった漢江流域も新羅の支配下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。

倭国・高句麗との同盟

 聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進文物の伝来に貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。
 
 新羅の女王はしきりにへ使節を送って救援を求め、高句麗と争っていた唐は日本からの遣唐使を黄海に面した領土を獲得した新羅経由で帰国させるようになるなど新羅の要請に応え、朝鮮半島は遠交近攻による「百済-高句麗」(麗済同盟)と「新羅-唐」(羅唐同盟)の対立となり、どちらのブロックに与するかが倭国の古代東アジア外交の焦点となった。

百済滅亡

 660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済は滅亡した。

百済復興運動

 唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図るが、唐軍の主力が帰国すると鬼室福信黒歯常之などの百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子である扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣し、斉明天皇筑紫国朝倉宮に遷った。

白村江の戦い

 帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するなどの内紛が起きた。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。
 これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する多くの百済貴族を伴って帰国させた。豊璋は密かに高句麗に逃れた。しかし、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになる。

唐による半島支配計画

 唐は高句麗の都があった平壌安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指し、百済の故地に熊津都督府をはじめとする5つの都督府を設置して熊津都督に全体の統轄を命じた。664年の劉仁軌の上表を受けて義慈王の太子であった扶余隆を熊津都督に任じた。
 
 
滋賀県遺跡地図

この地図は、平成13年度遺跡地図(平成14年3月発行、平成15年12月改訂)のものです。
 
滋 賀 県 全 域 図

数字で囲まれた図郭をクリックすると、その図郭が拡大表示されます。

 
安土瓢箪山古墳(あづちひょうたんやまこふん)
 滋賀県近江八幡市安土町桑実寺に所在する前方後円墳。1935年(昭和10年)と翌1936年(昭和11)年に発掘調査が行われており、1958年に国の史跡に指定されている(指定名称は「瓢箪山古墳」)。
 
 湖東平野の東をかぎる観音寺山の西麓に、尾根の先端を利用して、西北に面して作られ、全長162メートル、後円部径約90メートル、前方部幅約70メートル。墳丘には円筒埴輪はなく、かわりに底部穿孔の壷形埴輪ないし壷形土器が出土する。
 内部主体は後円部の竪穴式石室3室と前方部の箱式石棺2基で、このうち後円部中央石室に主たる被葬者が葬られ、他の4か所には近親者等が葬られたものと推定されている。築造は古墳時代前期(4世紀)、被葬者は地方豪族と推定される。
 
 遺物は箱式石棺の一つから石釧、勾玉、管玉、丸玉、小玉が出土した。 石室はいずれも墳丘主軸と直交して並列するが、中央石室のみが典型的な割石小口積みで、他の2室は粗雑な塊石積みであった。
 中央石室は内法の長さ6.6m、幅1.3m、高さ1.1mあり、下底部に割竹形木棺を安置した粘土床がある。鏡2、鍬形石、石釧、車輪石、管玉、筒型銅器、刀剣、刀子、銅鏃、鉄鏃、斧、鍬、やりがんな、短甲、その他が副葬されていた。
 鏡は虁鳳(きほう)鏡と二神四獣鏡で、ともに中国製であり、碧玉製腕飾類は、みな形式の古いものである。遺物の構成でみると、後円部の中央の石室の副葬品のみが多種多様で、それ以外の石室や石棺の遺物はそれと比べて貧弱。
 
 
 
7月8日(日)
エクシブ琵琶湖

転載元: シナの恫喝に負けるな! 防災・環境・歴史・観光で平和と繁栄


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1050

Trending Articles